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大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏3代当主。基光と改名するが、父・有光の隠居によって3代当主となり、従四位下治部大輔に任ぜられたことで元光の名に復した。 寛治元年(1087年)、源義家が清原武衡を攻めると、兵を率いて参陣し出羽国金沢柵を攻める。その時の軍功により、田川郡を与えられた。 嘉保2年(1095年)、一族と共に上洛して自らは従四位上大膳大夫、異母兄・大寺光祐は従五位下遠江守、泉光平は従五位下加賀守(後に蔵人となり加賀蔵人と呼ばれる)、弟・矢吹光孚は従五位下下野守、奈目津光房は従五位下石見守にそれぞれ任じられた。
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兄の重勝が多病であったため、仏門に入った父の跡を継いだ。寿永2年(1183年)、平家討伐の兵を挙げた源頼朝のもとへ一族の成田光治に兵を与えて派兵する。 平家滅亡の後、文治5年(1189年)、頼朝は奥州藤原氏を攻めるため、自ら大軍を率いて陸奥白河関に到った。広季は病に伏せっていたため、一族の大寺光行を名代として兵を預け、頼朝を迎えさせた。大軍が藤田に到着すると、頼朝は源頼義が勧請した八幡宮に戦勝祈願を行う。この時、頼朝は、石川の館の麓の河隈に明賀の松の影そ映ふ、と和歌を詠んでいる。頼朝は、奥州藤原氏を破って奥州を平定した後、志田郡の一部を八幡宮の神料として寄進、鎌倉に凱旋した。光行も石川に帰還した。 建久元年(1190年)、藤原氏の旧臣・大川兼遠が残党を集めて乱を起こすと、平定の軍に光行を参陣させる。 建久8年(1197年)、広季は一族の光行,矢吹光誠を伴って鎌倉で頼朝にまみえ、善光寺詣での先駆けを命じられる。上洛し、広季は従四位下大膳大夫、光行は従五位下兵部少輔、光誠は従五位下刑部少輔にそれぞれ任じられる。
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