清和源氏

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石川貞政 石川光元

 石川光政(杢兵衛)の子として誕生。はじめ、豊臣秀吉に馬廻衆として仕え、2千石を知行する。慶長2年(1597年)、 従五位下壱岐守に叙任される。
 慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐の際に、貞政は堀田一継や佐々行政と共にこれに従おうと浜松城まで追いかけて行ったので、江戸城に着いた際に殊勝であるとして備前則光の脇差しを褒美に与えられた。石田三成の挙兵により、関ヶ原の役が始まると、妻が京にいたので暇を与えると言われたが、これを拒んで参戦。東軍として赤坂まで進んで家康を迎えた後、本戦では浅野幸長隊に属して戦い、石田三成隊の服部新左衛門を討ち取り、ほか1つ首を挙げて本陣に持ってきた。行政と一,二を争うことになったが、土岐重元の証言により、行政が持ってきた首は柵内に獲ったもので、柵外で獲った貞政が挙げたの方が早いはずだとされ、一番首の功名と認められた。凱旋の後、この功で2千石を加増される。
 その後、豊臣秀頼に仕えて大坂城に詰めていたが、慶長19年(1614年)、片桐且元・貞隆と共に内通を疑う讒言を受けて城を追われ、京都に移り住んだ。そこを家康によって召し出されて、白銀五十貫目を授かり、本知安堵の約束を与えられ、旗本となった。
 翌年からの大坂の陣では両役で徳川方として徳川秀忠のもとで戦い、寛永2年(1625年)12月、大和国添下郡,摂津国菟原郡,近江国蒲生郡の3郡の内に、5,020石を知行とする旨の朱印状を与えられた。
 寛永8年(1631年)、妙心寺塔頭の桂春院の本堂を再建。承応3年(1654年)に隠居し、桂春と号する。明暦3年(1657年)に死去。享年83。
 また、寛永年間に『寛永諸家系図伝』が編纂されるに及び、姓を石川から石河(いしこ)として、子孫は石河を称している。本貫地美濃国加々島にも土地を有し、貞政,貞利,貞代まで3代は交代寄合として、その後は、若年寄支配寄合となる。子孫は4,250石の大身旗本として存続した。 

 石川光重の子。豊臣秀吉につかえ、馬廻組頭。兄弟には諸説ある。
 天正5年(1577年)、1万石を与えられ、播磨鶏籠山城の城主とされる。天正18年(1590年)、小田原の役に600騎を率いて馬廻衆として従軍し、文禄元年(1593年)の文禄の役では肥前名護屋城に、三ノ丸御番衆の御馬廻組として駐屯した。また、年次は分からないが、唐入奉行(船奉行)の1人として、小早川隆景の家臣・堅田元慶に秀吉の命令を伝え、五百石船を250隻建造することと土佐での資材調達を指示している。
 文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治で、木下与右衛門と共に福島宿を警固した。同年、龍野城主の小出吉政が但馬国に移封された後、龍野は太閤蔵入地となり、その代官を務めた。龍野城城番。同年11月2日、従五位下紀州守に叙任される。この頃、5万石の知行で代官および美濃金山城(鏡山城)城主。
 慶長3年(1598年)8月の秀吉の死で、遺物黄金15枚を受領。同年、美濃より移り、龍野城主となる。5万3,000石の知行。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して田辺城の戦いに加わった咎で改易され、領地を失ったが、藤堂高虎のとりなしにより助命された。龍野城は播磨一国を与えられた池田輝政のものとなり、その家老・荒尾但馬守,菅原高就,池田河内守が城代となった。慶長6年(1601年)6月19日没。墓所は妙心寺大雄院で、同院には石川光元像(非公開)がある。 

石川貞清 石川一光

 美濃国の出身。父や兄弟については諸説ある。貞清(光吉)の父は石川光重とされるが、不明であるとするものがあったり、「石川一光の一族という」とするものもある。一光(貞友)にも父を石川家光とするものと、光重とするものがあり、彼らの先祖である鏡島城主・石川光清の子と孫の代の系図に混乱があるため、判然としない部分があって説明がつかない。
 貞清(光吉)の兄は光元、弟は貞信(宗巴)とされるが、『正法山誌』では頼明(一宗)を弟とする説を載せている。これは前述の一光の弟であるに頼明(一宗)の父も光重であるとした場合であり、これに従えば、光元・貞清(光吉)・一光・頼明(一宗)が兄弟となるが、この場合、貞信が浮いてしまう。
 父・光重とその兄・光政については、その父を石川光信(光延)とするものがあり、同説をとる『妙心寺史』では光政・光重・功沢宗勲を兄弟とする。別説では、光政・光重・一光・頼明(一宗)が兄弟で、これに従えば、一光・頼明は、光元・貞清・貞信の叔父にあたることになる。 

 石川家光の3男。美濃鏡島城主・石川光政は長兄、丹波国の山奉行・光重は次兄。ただし異説もある。
 親・兄弟共に羽柴秀吉に仕える譜代衆の1人で、兵助は馬廻であった。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで一番槍として突入し、賤ヶ岳の七本槍に並ぶ戦功であったが、この戦いで兵助は拝郷五左衛門の突き出す槍に目を突かれて戦死したため、これを惜しんで、末弟・頼明(長松)に、兄の代わりに一番槍の感状と1,000石が与えられた。
 『常山紀談』では、戦いの前夜に福島市松(正則)と口論して喧嘩になり、刺し違えようほどであったが、明日の大戦を控えていると周囲に止められたので、口惜しかった兵助は「明日わが後影をみよかし」と啖呵を切って、翌日、柳瀬では只一人真っ先に突撃して一番槍を取ったものの討ち死にしたという逸話を載せて、怒りを戒めている。他方、『武家事紀』では、賤ヶ岳の戦いでは石川兵助は秋田助右衛門と共に旗奉行であったというが、兵助は日頃から加藤嘉明に男色の思入れがあり、自分の兜を脱いで嘉明に与えようとしたところ、嘉明は人の兜を付けて働けるかと激怒してこれを棄ててしまったので、兵助は兜を着けずに突撃して一番槍をつけ、敵の槍が左の目上に当たって打死んだという。 

石川頼明 石川光忠

 石川家光の4男。ただし異説もある。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いに参戦した兄・兵助一光は、賤ヶ岳の七本槍に並ぶ戦功であったが、同合戦で戦死したため、同年6月に羽柴秀吉より兄の一番槍の感状を譲り受けて、1,000石を賜り、小姓として取り立てられた。天正19年(1591年)、秀吉が行った三河国吉良での狩猟に随兵。
 慶長3年(1598年)3月、醍醐の花見の際に西丸殿(淀殿)に随従。同年6月22日、播磨国加東・印南・笠井・揖西の4郡および丹波国舟井・氷上の2郡,美濃国多芸郡の内で、6,450石を加増された。
 慶長4年(1599年)正月、豊臣秀頼の側近に列し、五大老五奉行の連署にて、頼明(掃部頭),石田正澄(木工頭),石川貞清(備前守).片桐且元(東市正)の4人は、奏者番とされた。慶長5年(1600年)までに播磨・丹波等で加増を受けて、1万2,000石を領した。
 同年の関ケ原戦役では西軍に与し、7月の伏見城の戦いに加わった後、9月には大津城の戦いに従軍。城主の京極高次が退去した後も大津城に駐屯した。しかし、同日に西軍が本戦で敗れていたのを知ると逃亡し、脇坂安治を通じて井伊直政に降参したが、許されず、10月7日]に切腹となり、首は京の三条河原に晒された。この理由を『武家盛衰記』は、何年か前に石田三成の命で徳川家康が滞在している伏見の屋敷に火を付けて暗殺しようとしたが、家康の家来に捕まって失敗し、拷問の末に白状して大坂城に幽閉されたことがあるためとし、「前代未聞の奸人」として三成と同罪に処されたとするが、この話の真偽は不明。また、西軍に与したが、戦闘には加わらず大坂城を警備した後に謹慎した生駒修理亮は、頼明を匿った罪により切腹を命ぜられたという。
 正室の宇多氏はその後32年間生き、寛永9年(1632年)8月4日に死去。嫡子の半兵衛一真はのちに鳥取藩池田家の家臣となり、鳥取県に分布する石河氏の一流となった。また、一真の弟または子とされる又兵衛宗直は伊予松山藩松平家の家臣となった。 

 文禄3年(1594年)、豊臣家臣・播磨国龍野城主の石川光元の子として生まれる。光元は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に与して改易され、翌慶長6年(1601年)に没した。
 慶長8年(1603年)に父の光元のため京の妙心寺に大雄院を建立したが、この土地は叔父の石川貞清が寄進している。また、開祖となった僧・慧南玄譲の招請も10歳の光忠に代わり貞清が行っており、両者の親しい関係が窺える。母が徳川家康の側室となり、松平仙千代,徳川義直を産んだこともあり、慶長13年(1608年)に召し出され、慶長15年(1610年)美濃国と摂津国に合計1万300石の知行を賜る。慶長17年(1612年)、家康の命で尾張藩主の異父弟・徳川義直に付属し、名古屋城代となる。異父兄の竹腰正信も義直に配属させられている。大坂の陣の際に、義直に従い出陣した。
 寛永5年(1628年)9月18日死去。享年35。家督を長男の正光が相続した。次男の宗直は2000石、3男の忠昌は1000石の分知を受けて分家した。 

石河正章 石河正茂

 貞享元年(1684年)、尾張藩家老・石川章長の子として生まれる。宝永3年(1706年)、父の隠居により家督を相続。万石格、家老となる。
 享保元年(1716年)、藩主・継友の許しを得て、祖父・正光の代から途絶えている将軍家への参府御暇御礼(参勤と帰国の際の将軍家への拝謁)の再開を幕府に願出た。曽祖父・光忠が徳川家康の命により、徳川義直に付属せられた経緯から、石河家は、将軍家への拝謁を許された筋目の家柄であったが、祖父・正光が幼くして家督相続して以降、参府御暇御礼が途絶えていた。藩主・継友の命で、尾張藩江戸家老・大道寺直秀が、幕府老中・井上正岑と交渉した結果、これが認められる。享保2年(1717年)3月、正章が江戸に出府し、江戸城で将軍・徳川吉宗に拝謁を許される。これが先例となり代々の当主に受け継がれた。享保4年(1719年)、従五位下出羽守に叙任。享保11年(1726年)、名古屋への参勤のために、木曽川に駒塚渡しを開設した。
 享保16年(1731年)6月、隠居して家督を嫡男の忠喜に譲る。宝暦3年(1753年)7月28日死去。享年70。 

 享保6年(1721年)、分家・石河興利の家督を相続。享保18年(1733年)の実兄・忠喜の死去により、実家に帰ってその遺跡を相続し美濃駒塚領主となる。
 元文元年(1736年) 、桜町天皇即位の際に、幕府への祝儀の使者として江戸城本丸に使いする。元文4年(1739年)家老となる。元文5年(1740年)従五位下伊賀守に叙任。安永2年(1774年)7月23日死去。家督は嫡男・光籌が相続した。