清和源氏

G174:石川元光  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼親 ― 源 頼遠 ― 石川元光 ― 石川盛義 G176:石川盛義

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石川時光 石川貞光

 元徳2年(1330年)4月、兄である12代当主・家光が没すると、その長男・光英が幼少であったため光英を養いつつ家督を継いだ。光教を名乗っていたが、北条時宗から一字を受けて時光と改める。
 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が隠岐に遷され、天皇の呼びかけに応えて倒幕の兵が各地で挙がる。元弘3年(1333年)5月17日、長男・義光の軍は新田義貞に武蔵国で合流し、鎌倉幕府討伐に参戦した。同年7月、時光は兵を率いて上洛し、従五位下宮内大輔に任ぜられる。
 建武元年(1334年)2月、一族の大寺光広,小高光顕とともに上洛。時光は従四位下大膳大夫、光広は左京亮、光顕は主膳正にそれぞれ任じられる。建武2年(1335年)4月1日没し、光英が跡を継いだ。 

 父・家光が死去した際は天下多難で、幼少の光英(貞光)では当主として力量不足が懸念されたため、伯父の時光が一時家督を継いだ。執権・北条貞時の時に元服。貞時から一字を受けて貞光と改名。従五位下美作守に任じられる。
 建武2年(1335年)7月、北条時行が信濃国の諏訪頼重と手を結び、北条氏の残党を集めて鎌倉へ軍を進めた(中先代の乱)。伯父の石川義光率いる兵は成良親王を奉ずる足利氏の軍を助け、乱の平定に寄与する。足利尊氏は義光の軍功を高く賞し、厚くもてなした。義光は尊氏に帰することとなった。
 建武2年12月24日、北畠顕家の配下・広橋経泰が馬場原に布陣して石川を襲う構えを見せた。貞光は自ら一族と兵を率いてこれを破り、28日には軍を返して白河城を攻めた。白河城主の白河結城氏は顕家に優遇され、石川氏の古来の領地が与えられていた。建武3年(1336年)、経泰は湯本に城を築いて石川氏の領地を狙うが、貞光はこれを再び破る。暦応元年(1338年)、従四位下兵部大輔に任じられる。仏門に入ってからは光念齊と号した。
 子がなかったため、義光の子を全員養い、その長男である詮持を後継ぎとした。 

石川光昌

 永禄7年(1564年)、百目木城主・石川有信の子として生まれる。百目木石川氏は塩松石橋氏の重臣で、三芦城主・石川氏の庶流(第17代当主満朝の3男・盛光を祖とする)であり、光昌の伯母は宗家の第24代当主・晴光の正室であった。
 父・有信は永禄11年(1568年)、大内義綱らと共に田村氏に内通して主君・石橋尚義を追放し、田村氏の配下となっていた。後に義綱の子・定綱が田村氏からの独立を目論むと、光昌はこれに同調せず、天正13年(1585年)、田村清顕とその婿・伊達政宗に従って定綱を攻めた。その功により政宗から小手森城を与えられて移ったが、宮森城主・白石宗実の与力にされたことに不満を持ち、天正16年(1588年)の郡山合戦の際に相馬義胤に内応したため、小手森城は政宗の攻撃を受けて落城し、500人余が討ち取られた。この時に光昌も討死したとされることが多いが、実は光昌は義胤を頼って落ち延びていた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、安達郡を領していた上杉景勝に仕えて最上義光攻めに参加したが、上杉軍が敗北の末に減封されると、上杉家を離れて流浪の身となった。慶長10年(1605年)2月10日死去。享年42。