| A303:大田田根子 | 大田田根子 ― 大三輪大友主 | MW01:大三輪大友主 |

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| 大三輪大友主 | 三輪 逆 |
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直接的には、大田田根子の孫・大三輪大友主が氏祖である。大神神社を奉斎する大和国磯城地方が本貫。 |
敏達天皇14年(585年)6月、蘇我馬子が敏達天皇に仏法を許され、仏舎を造り仏像を迎えて供養した際に、逆は物部守屋,中臣磐余と寺塔を焼き仏像を廃棄しようと謀ったが馬子に拒まれている。同年8月、敏達天皇が崩御し殯宮で葬儀が行われた際、逆は隼人を集めて殯庭を警護した。 |
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三輪小鷦鷯 |
三輪文屋 |
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『日本書紀』によると、舒明天皇の采女を犯したものがいて、罪状を取り調べ、全員が罪に服した。この時に三輪小鷦鷯が取り調べられたことを苦にして頸を刺して自殺した、とある。 |
聖徳太子の子である山背大兄王に仕え、上宮王家襲撃事件では山背大兄王と共に生駒山へ逃れた。この時、文屋は深草屯倉へ行き、さらに東国へ赴いて上宮の乳部の民を率いて入鹿と戦うことを王に進言したが、王は人民を労役にかける苦しみと肉親を亡くした際の悲しみのことを思い従わなかった。その後、蘇我入鹿が遣わした将軍たちの率いる兵に囲まれた際に、将軍たちへの使者に遣わされている。 |
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三輪高市麻呂 |
大神末足 |
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天武天皇元年(672年)の壬申の乱の勃発時、高市麻呂は朝廷に官職を得ず、倭(大和国)で形勢を観望していたらしい。大伴吹負が6月29日に倭京を襲ってそこにあった大友皇子側の軍の指揮権を奪取すると、三輪君高市麻呂は吹負の下に入って戦った。7月に入ると犬養五十君が率いる敵との会戦で、高市麻呂は置始菟と共に右翼の部隊を率いた。彼らはまず箸陵で前面の敵を破り、中軍のいる中つ道に回りこみ、吹負の本営に迫っていた廬井鯨の軍の背後を断ち、これを敗走に追い込んだ。 |
宝亀7年(776年)従五位下に叙爵し、備中守に任ぜられる。同年12月に遣唐使の副使の人選に変更があり、それまでの大伴益立に替わって、左中弁・小野石根と共に末足が副使となる。翌宝亀8年(778年)6月1日に遣唐大使・佐伯今毛人が重病となったことから、大使を伴わずに出発すること、唐に到着して牒を渡す際に必要に応じて大使が不在の理由を弁解するよう勅を受ける。 |
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三輪根麿 |
真神田子首 |
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天智天皇2年(663年)3月新羅討伐の部隊として半島にわたり、 上毛野君稚子,巨勢神前臣訳語,阿倍引田臣比羅と共に、2万7千人の軍団を率いて新羅を討った。 |
672年の壬申の乱の勃発時、三輪子首は伊勢の介であったと推測されている。大海人皇子はまず美濃国で兵を集めさせ、自らは24日に大和国の吉野宮を発って東に向かった。25日に伊勢の鈴鹿郡に入ったところ、国司守の三宅石床,介の三輪子首,湯沐令の田中足麻呂,高田新家に出会った。そこで500人の兵を発して、鈴鹿山道を封鎖した。以上が『日本書紀』の説明で、500人の兵は三宅が連れてきたものと推測される。この後も伊勢国からは兵力が動員され、軍の一翼を担ったと考えられる。 |
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大神良臣 | |
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貞観4年(862年)、兄・全雄と共に真神田朝臣から大神朝臣に改姓する。その後左大史を経て、仁和2年(886年)外従五位下・肥後介次いで豊後介に叙任される。 |