<皇孫系氏族>平城天皇後裔

AW01:在原行平/業平  在原業平 ― 荒尾公見/宗顕 AW02:荒尾公見/宗顕

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松平信重 平手政秀

 出自は確定できていない。『松平村誌(松平氏由緒書)』では賀茂氏や鈴木氏の一族といわれる。『古代氏族系譜集成』は父・信盛を荒尾持頼と同一人物とし、また荒尾氏は在原氏の後裔のため、信重は在原氏であったとする。また「陰陽寮下司系図―加茂系図」(鈴木真年『百家系図稿』所載)では、信盛の父親は賀茂在信だとする。延文5年(1360年)頃に家督を継いだという。貞治6年(1367年)、信盛の菩提所として足助氏出身の寛立を開山に寂静寺(現在の高月院)を開基した。
 信重の家は弓馬や和歌に秀でた三河国中に知られていた有徳人・富貴の者であったとされ、松平親氏とその配下・石川孫三郎ら一行が信濃国から碧海郡酒井村あるいは幡豆郡坂井郷を経て松平郷へ到来した。信重は親氏の和歌に通じた教養と武勇を評価して、その次女・水女の婿養子として松平郷を継承させた。

 尾張国春日井郡にあった志賀城の城主。織田信秀の重臣として主に外交面で活躍。茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。
 天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取りまとめた。また安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。
 信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃した。享年62。菩提寺は政秀寺、墓碑は平和公園政秀寺墓地に移転。首塚が名古屋市西区中小田井の東雲寺にある。
 自刃の理由は、『信長公記』の首巻に拠れば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされている。不和の原因を作ったのは政秀の長男・五郎右衛門で、信長が五郎右衛門の持っている馬を所望したとき、五郎右衛門は「自分は馬を必要とする武士だから、(馬を献上するのは)お許しください」と言って拒否したのを信長が逆恨みしたのだとされる。その他にも、信長の奇行と長男の不忠を憂い、自身の死で双方を諌めるため(美談)として有名。また、信長の弟・信行を家督継承者に推す林秀貞・通具兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立とする説もある。
 政秀の死後も信長の行状は改まらなかったが、信長は政秀の死後に沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立し、菩提を弔った。
 政秀には『信長公記』によると3人の男子(五郎右衛門,監物,甚左衛門)があったとされるが、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされている。『信長公記』に挙げられている3人が誰に当てはまるかは見解が分かれている。系図の位置が不明な平手長政(孫右衛門)という人物を長男の五郎右衛門に当てはめる場合もあれば、五郎右衛門は養子として弟の政利のことであるともされる。娘(雲仙院)が信長の弟・織田長益の正室となっている。

平手久秀 平手汎秀

 政秀の弟で養子であるとする説もある。『信長公記』に登場する、主君織田信長から所望された駿馬を献上することを拒み、父政秀切腹の原因となったといわれる「五郎右衛門」がこの久秀だとされることもある。
 この五郎右衛門は、長兄とされる長政や叔父の野口政利とされる諸説があるため確証はない。また、五郎右衛門以外の政秀の男子として名の挙がる「監物」と「甚左衛門」はこの久秀のこととも、久秀の子(又は弟)の汎秀のことともされる。
 信長に従い、各地で転戦したが、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆平定戦で討ち死にしたという。末弟(あるいは子)の汎秀は前年の三方ヶ原の戦いで戦死していたため、平手氏嫡流は断絶した。


 通称は甚左衛門。 官位は監物。平手政秀の3男、もしくは政秀の嫡男とされる久秀の嫡男(つまり政秀の孫)ともいわれる。母は加藤清正の姉とされる。『信長公記』に登場する平手政秀の三子のうち、系図類においては政秀の子である平手久秀の子にあたる。久秀も官位は「監物」であった。
 織田信長配下の武将として、石山本願寺攻めなどに各地を転戦する。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いに林秀貞,佐久間信盛,水野信元らと共に援軍として出陣したが、武田信玄の軍勢によって敗北した。信盛らは早々に撤退したが、汎秀は徳川家康と共に奮戦したものの敗れ戦死し平手氏嫡流は途絶えた。援軍のうち汎秀のみが戦死したことについて、浜松周辺の地理に不慣れだったため退却に失敗したと考えられるが、前田利家の話を書き留めたとされる『陳善録』には、19歳と若く高慢な猪武者であったために死んだという逸話が書かれている。それによると、信盛や汎秀を大将とする7人の武将が援軍として派遣され、浜松で宿をとった。家康は彼らの地位を考慮せず、宿を近いほうから順番に挨拶して回ったため、汎秀は後回しとなった。腹を立てた汎秀は「自分は明日先陣して討ち死にするゆえ挨拶は無用」と家康の来訪を拒んで、宿の二階で三味線を弾き小唄を唄って怒りを示した。そして翌日の戦闘において、家康や佐久間の制止を聞き入れず、「家康が先に挨拶した者が大将であり、自分はただの武士に過ぎない」と言い捨てて敵陣に突入して討ち死にしたとされている。
 汎秀は信長に目をかけられた将の一人であり、信盛が後に信長によって追放される際の折檻状には「信盛は秀貞・信元らとともに、汎秀を見殺しにした」との理由をつけられている。
 戦没地は稲葉山(浜松市)と伝わり、「監物坂」という地名の坂も残っている。かつてその地には汎秀およびその家臣の墓碑が存在し、平手神社として信仰を集めた。現在も地元の人々からは代々「ひらてんさま」と呼ばれ慕われている。また、汎秀は喘息を患っており、汎秀が死に際に「拙者はこの地にて一命を落とすが、これからは神となりこの土地の民が患う喉の病を治してしんぜよう」と言い残し討死した伝説もあり、平手神社に祈ると喘息・風邪等喉の病気が治癒すると伝わっている。なお、汎秀の墓碑と家臣の墓碑は平手家一族の菩提寺である牛頭山長福寺(愛知県稲沢市平和町下三宅)に移転されている。その墓碑には、名が「時秀」と刻まれているが理由は不明である。