| KD03:庄 家弘 | 大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉弘行 ― 庄 家弘 ― 庄 家次 | KD04:庄 家次 | ● |

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| 庄 家次 | 庄 朝次 |
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本来なら庄氏分家であったが、家長の嫡子である庄小太郎頼家が一ノ谷の戦いで若くして戦死した事から、家長によって頼家の養子として迎えられ、児玉党本宗家7代目を継ぐこととなる。家長が一ノ谷の戦いにおいて、武功を上げ、恩賞として備中草壁荘地頭職を与えられ、家次も備中国の地頭として赴任することとなり、庄氏本宗家の本拠地である児玉郡北部の栗崎館を去る。そして、そのまま備中に永住し、家次の一族は備中庄氏となった。結果として北部国境付近にある児玉党(児玉庄氏)本宗家を継ぎ、栗崎の領地を守ることとなったのは時家であり、彼が本庄氏を名乗ることとなる。 |
生まれは、武蔵の栗崎館あるいは備中の猿掛城かその居館と考えられる。通称は新左衛門尉だが、のちに大瀧左衛門尉となる。 |
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庄 資房 |
庄 資政 |
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父は本庄有次とされる(複数系図が存在している為、断定はできない)。資房の代から備中庄氏は「資」を通し字とする様になった。 |
父庄左衛門四郎資房の後を継いだ兄の庄七郎資氏の養子となった。兄の養子となった資政は猿掛城主となり活動した。系図上では、猿掛城の7代か8代城主ということになるが、現在の系図研究上、6代か7代城主と考えられる。兄資氏が一時的に猿掛城主になっていたかが不明であるため、細かい点で断定できない。 |
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庄 資昭 |
庄 元祐 |
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系図には庄資政の後に名が記されているが、実父は庄資氏(幸山城2代城主)と見られ、資政(資氏の弟)は義父と考えられる。資氏と資政は、共に南朝に属して活躍した武将である。資昭の子息は、庄氏貞と庄資定が見られる。系図に「資定 信濃」とあることから子息の1人は東へ移住したものと見られる。 |
備中守護代の家柄。早くから守護細川氏の力が衰えていた戦国時代の備中においては、国人衆が尼子氏・大内氏などに分かれて勢力争いをしていた。当初は連携して勢力伸張を図っていた荘氏と三村氏であったが、永禄2年(1559年)に猿掛合戦で干戈を交える。この対立は容易に決着はつかず、三村家親の要請を受けた毛利氏の仲介でようやく和睦に至った。その結果、荘為資あるいはその一党である荘実近(穂井田)の養嗣子として元祐は荘氏に迎えられた。 |
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植木秀長 |
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秀長の代より領した地名からとって「植木」の姓を名乗るようになった。 |