| H101:平 高望 | 平 高望 ― 平 良兼 | H301:平 良兼 |

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| 平 良兼 | 平 公雅 |
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父の高望とともに上総国に下向した良兼は、高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず父に次いで上総介を勤め、上総下総に勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。 |
平公正,平公雄,平忠望も同一人物とされる。父良兼らが従兄弟の平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、弟の公連と共にこれを将門の許に逃がしたとされる。 |
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平 致頼 |
平 公連 |
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坂東平氏の流れを汲む平公雅の三男(平良正の子とも)。致経,公親,公致らの父。平五大夫と号した。従五位下、備中掾。 |
父良兼らが従兄弟の平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、兄の公雅と共にこれを将門の許に逃がしたとされる。 |
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長田俊政 |
長田重元 |
| 北条高時に従い自害。 | 長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。天正10年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたという。永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。 |
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長田忠致 |
長田景致 |
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長田忠致は道長四天王の1人とされた平致頼の5世孫にあたる。尾張国野間を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。平治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んだという。 |
父、忠致の源義朝暗殺計画に加担し、実行の際には義朝の第一の郎従であり、自分の義兄弟でもある鎌田政清を斬っている。『平治物語』においては、これ以外の場面でも常に父と一対で登場し、息の合った行動を見せている。その最期もまた父と同時であり、義朝の子源頼朝の命で処刑されたという。また、彼の子孫は三河国へ逃れて永井と名乗ったとも、甲斐国へ逃げて今でも家名を保っているとも言われている。 |