<皇孫系氏族>宣化天皇後裔

TJ02:多治武綱  継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 丹治武綱 ― 青木重直 TJ08:青木重直

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青木重直 青木一重

 武蔵七党の一つ丹党の末で美濃国に流されたと称する青木氏の一族。ただし、重直より前は、諸系図によって内容が異なり、確かではない。
 初め土岐頼芸、次いで斎藤道三に仕えた。『信長記』の一部によれば、永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙った刺客の一人だったという。美濃斎藤氏滅亡後は織田氏家臣の丹羽長秀に仕え、山崎の戦い,賤ヶ岳の戦いに参加した。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。
 文禄2年(1593年)10月17日、摂津国豊島郡のうちで1400石を与えられ、文禄4年(1595年)9月21日、菟原郡で360石を加増された。この後に剃髪して浄憲と称し、刑部卿法印に叙された。 慶長18年11月21日(1614年元旦)、大坂で死去した。享年86。

 天文20年(1551年)、青木重直の長男として美濃国で生まれた。青木氏は美濃の豪族で、土岐氏・斎藤氏に仕えていたが、一重は経緯は不明であるが、父・重直の下を離れて、初め今川氏真に仕えた。新坂の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を受け取った。永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した。
 元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子・隆基を討ち取るという武功を挙げて、勇名を轟かせた。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟・重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。天正元年(1573年)、徳川家を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父・重直を頼った。
 丹羽家の家臣として、山崎の戦い,賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜された。同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった。天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下・民部少輔に叙任され、七手組の組頭の一人とされた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕した。
 慶長18年(1613年)末の父の死に際して遺領(約2000石)を継ぎ、併せて1万2000石となる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、将として城の一角を守備した。12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康の許へ派遣されたところ、京都で返事をするというので随行したが、同地で京都所司代板倉勝重に、「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟・可直を誅殺する」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。その後、二条城に召し出され、家康に再び仕えることになったが、減封はなく、可直に2000石を分与して1万石とされた。また、夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子・正重を病気を理由に廃嫡し、代わりに可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。 寛永5年(1628年)、死去。享年78。

青木重兼 青木重成

 慶長11年(1606年)、旗本・青木可直の長男として播磨国姫路にて生まれた。慶長15年(1610年)、徳川家康に初めて拝謁する。麻田藩初代藩主・青木一重には嗣子がなく、正重を養嗣子として迎えていたが、大坂の陣および豊臣氏の滅亡を機に病気を理由に廃嫡して、元和5年(1619年)の一重の隠居に伴い、その養嗣子となって麻田藩1万石を継いだ。
 寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に随行し、従五位下・甲斐守に叙任された。寛永13年(1636年)、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。
 寛永18年(1641年)より、京都御室の仁和寺の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、花園の妙心寺近辺に仮寓した縁で、妙心寺の愚堂禅師に参禅するようになった。明暦2年(1656年)、摂津の普門寺で中国より渡来した禅師隠元と知遇を得た。万治2年(1659年)2月、摩耶山麓に仏日寺を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には第2代住持として隠元の弟子の慧林性機を招致した。
 寛文3年(1663年)、摂津川辺郡の多田院再興の奉行も務めた。寛文7年(1667年)には、萬福寺の大雄宝殿が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。
 隠元の招きにより明暦元年(1655年)に明から来日した木庵性瑫を開山として、寛文10年(1670年)に江戸に瑞聖寺を創建した。 寛文12年(1672年)12月9日、隠居(致仕)した。重兼には女児しか子がなかったため、婿養子として重成(重正)を迎えて家督を譲った。
 以上のような縁もあり、重兼は仏門に傾倒しており、延宝7年(1679年)に萬福寺第2代住持となっていた木庵の下で出家した。僧名は端山性正という。その後、川辺郡に大覚山方広寺を開き、七堂伽藍を建立し、開山に木庵を招いた。後には自らもその2世住持となった。天和2年(1682年)、麻田において死去した。享年77。

 寛永2年(1625年)、駿府藩主・徳川忠長の附家老であった遠江国掛川城主の朝倉宣正の孫で、朝倉宣親の長男として生まれた。寛永6年(1629年)に父が26歳で早くに亡くなり、祖父のもとで育てられるが、寛永8年(1631年)に徳川忠長が閑居を命じられたときに、適切な諫言を怠った附家老の宣正の責任を問われて外祖父の酒井忠勝に預かりとなった。
 麻田藩2代藩主・青木重兼には嗣子がなく、重兼の正室が酒井忠利の養女であった縁で、忠利の長男である忠勝の3男・可一を養嗣子として迎えたが、寛永21年(1644年)6月に17歳で早世した。そこで、忠勝の外孫である禄を失った朝倉家の重正を新たに婿養子として迎えられ、承応元年(1652年)、重兼の娘(後の慶雲院)を正室とした。
 寛文12年(1672年)12月9日、重兼の隠居により跡を継いだ。同月28日、従五位下・甲斐守に叙任された。元禄3年(1690年)5月18日、大番頭に任じられた。元禄5年(1692年)1月11日、御留守居に転じ、さらには3月1日、御側衆となるなど、徳川綱吉から厚い信任を受けた。
 重正は元禄6年(1693年)8月15日に亡くなるが、直前の9日に、綱吉から侍医の森雲仙,曾谷長順,杉山検校の3名を特に派遣されて診療されていることが、綱吉の信任ぶりを示していると言える。享年69。白金の瑞聖寺に葬られた。養父の重兼が菩提寺の瑞聖寺を創建したように、重正もまた禅宗に傾倒していたようであり、『土芥寇讎記』中で重正は禅学に傾倒し過ぎている、と苦言を呈されている。