<神皇系氏族>天孫系

OE07:大江広元  土師身臣 ― 大枝諸上 ― 大江千古 ― 大江匡房 ― 大江広元 ― 毛利季光 OE11:毛利季光


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毛利季光 毛利経光

 本姓は学者の家系の大江氏である。従って元は武士の家系ではない。父の広元は源頼朝に招かれて都から鎌倉へ下り、幕府創業に尽力した。季光は父の所領のうち相模国毛利庄(厚木市)を相続し、毛利氏の祖となる。公家である父親と違って、武士として東国に土着したのである。
 3代将軍・源実朝に仕え、鶴岡八幡社参行列では前駆に加わった。実朝の死後出家し、入道西阿と称した。承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、北条泰時に従って後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦い、美濃国の木曽川の突破戦や、山城国の宇治川・淀川の突破戦で武名をあげた。この功によって安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。
 天福元年(1233年)には執権・泰時から関東評定衆に任命される。寛元4年(1246年)には、藤原頼経・頼嗣父子を自邸に迎え、当時将軍職を継承したばかりの頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉を得る。
 宝治元年(1247年)、北条氏執権派と対立した妻の実家三浦氏方に付き敗北(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光,光正,泰光,師雄らと共に自刃した。合戦の直前、季光は将軍御所に向かおうとしたが、妻の「兄・泰村を見捨てることは、武士のすることではない」との言葉で三浦陣営に付いたという。毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国にいた4男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に吉田荘の国人領主から一躍中国地方の覇者となる毛利元就が出る。
 なお、季光の娘は宝治合戦を執権として指揮した北条時頼の正室となっていたが、戦後に離別している。

 父・季光が仕えていた将軍・藤原頼経、または執権・北条経時より1字を賜い経光と名乗る。
 宝治元年(1247年)の宝治合戦により、父や兄などの毛利氏一族がほとんど討死にした。その際、経光は越後におり、宝治合戦には直接的に関わることはなかった。この合戦の結果、毛利氏発祥の地である相模国毛利庄は失ったものの、同族の長井氏の取り成しもあり、越後国刈羽郡佐橋荘南条,安芸国吉田荘の領有は許された。
 後に経光は4男の時親に安芸国吉田庄を継がせている。この時親の子孫から後に安芸国の戦国大名となる毛利元就が出ている。越後に残った嫡男の基親の子孫では安田氏,北条氏が有名である。

毛利時親 毛利貞親

 戦国時代に中国地方の覇者となる安芸毛利氏の祖である。吉田郡山城の築城者とされ、若き頃の楠木正成に兵法(闘戦経)を教えたという伝承もある。
 文永7年(1270年)、父より越後佐橋荘南条,安芸吉田荘の地頭職を譲り受ける。六波羅評定衆を務め、河内に邸宅を持った。当時の執権・北条時宗の偏諱を受けて時親と名乗ったとみられるが、この時期の活動については不詳である。
 元徳2年(1330年)、安芸吉田荘の地頭職を孫の親衡に譲ると、元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後に隠居するが、南北朝の争乱が勃発すると、子の貞親、孫の親衡は南朝方に付き、越後の毛利領を拠点に活動したため、安芸の地頭職を取り上げられ苦境に立たされた。しかし、時親は曾孫の元春(師親)を北朝方の足利尊氏に味方させ、自らは建武3年(1336年)に安芸吉田荘に下向し、貞親,親衡の北朝方への帰順を取り成し、ともに安芸に下向させることで、安芸における毛利氏の勢力の維持を図った。
 建武4年(1337年)、曾孫・元春へ安芸吉田荘を譲渡し、暦応4年(1341年)に死去した。
 永和2年(1376年)、毛利元春が足利義満に対して本領安堵を申し出た書状では、建武3年(1336年)7月に時親より譲与されたとあり、義満と今川貞世より署判を得た。

 生年は不明だが、執権・北条貞時の代に「貞」の1字を受けているとみられることから、貞時執権時代に元服を行っているものと考えられる。
 貞時の子・高時の代になって元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅ぶと、翌延元元年/建武3年(1334年)7月、貞親の父・時親は貞親の孫である師親(後の元春)を引き連れて、安芸国吉田に入り隠居生活に入った。貞親は父の隠居にともない、河内国加賀田郷を譲られ、自身の嫡男・親衡には越後国南条荘が与えられた。
 同年、後醍醐天皇に臣従していた貞親は親衡とともに足利尊氏の武家政権に反旗を翻し、越後にて大覚寺統系の親王阿曾宮を奉じて挙兵するが、激怒した尊氏によって大江一族で惣領であった長井氏当主・長井高冬(長井挙冬)に預けられた。その後は、後醍醐天皇に従って出家、朗乗と号した。

毛利親衡 毛利元春

 南北朝の戦乱が勃発すると、父の貞親とともに南朝方として越後で活動した。しかし、後に祖父の時親の取り成しで北朝方に帰順し、一族とともに安芸に下向した。毛利氏の総領は祖父の死後、子の元春が継いでいたため、親衡は日下津城を築いて別家を起こし、子孫は坂氏を名乗り、安芸毛利氏の有力支族(庶家)の一つとなった。
 武勇に優れ、かつ反骨心に富む人物であったようで、正平5年/貞和6年・観応元年(1350年)に勃発した観応の擾乱の際には反幕府方として活動し、周防の大内氏と同盟して九州に出陣した子の元春の留守を攻撃し、また、日下津城に攻め寄せた安芸守護・武田氏信の軍勢を籠城の末に撃退する技量を見せている。 

 曽祖父・時親の代官として足利尊氏に一貫して従った。その忠勤により、13歳で元服した際には、足利家執事・高師直の兄弟・師泰から一字拝領し「師親」と名乗った(師泰没落後は元春と改名)。
 祖父の貞親、父の親衡は南朝に従って越後国南条荘にて活躍し、一族で対立することとなる。後見役の時親はそうした争乱の最中の興国2年/暦応4年(1341年)に没し、安芸国吉田荘の支配は元春が引き継ぐことになった。
 元春は19歳で家督を相続し「郡山殿」と呼ばれるようになった。南朝方の一族を敵に回して勝ち残った元春は、九州探題・今川了俊に従って、九州へ下向して北朝方として戦いを繰り広げることとなる。一方、敵対関係にあった父・親衡が、九州の南朝方勢力、周防国の大内弘世などと結んで、九州出陣中の元春の領地へ侵攻した。
 元中2年/至徳2年(1385年)、嫡子・広房が安芸国西条にて討死したため、孫の光房に跡を継がせ、その成長まで後見することとなる。
 元春の代前後から庶子家が派生し、兄弟の坂氏,有富氏、庶子の麻原氏,中馬氏,福原氏などが生まれている。また坂氏から、さらに桂氏,光永氏,志道氏などの庶流家が生まれ、内訌と協力を繰り返しながら、後に戦国大名としての毛利氏を支える一門家臣となっていく。

毛利広房 毛利光房
 天授7年・弘和元年/康暦3年・永徳元年(1381年)に、父・毛利元春より吉田荘地頭職半分を譲られている。これと同時に毛利家の家督を相続したものと推測される。家督を継承して後の元中2年/至徳2年(1385年)に、出陣先の西条にて討死した。この時、広房には懐妊中の妻がおり、広房の死後に男児を出産した。男児の成長までは祖父にあたる元春が後見することになり、この男児が成人後、毛利光房と名乗って家督を継いだ。 

 光房が出生する前に、父親の毛利広房が安芸西条にて討死し、祖父の元春の下で成長していくこととなる。
 応永の安芸国人一揆の中で中心的な役割を果たし、毛利光房は幕府からも一目置かれていた。しかし、一方では毛利家中で麻原氏や坂氏などの庶家が台頭してきており、毛利家当主である光房の立場はきわめて不安定なものであった。特に応永25年(1418年)の頃には、毛利氏惣領家と庶家との間の対立が激化しており、居城である吉田郡山城が庶家の軍勢から攻撃を受けるまでに至った。在京中にこの知らせを受けた光房は有力な庶家の一人である福原広世に嫡子・煕元の支援を依頼し、広世の救援で庶家を撃退することができた。一連の毛利家内紛に際しては近隣の国人領主・平賀氏はじめ宍戸氏,高橋氏らが調停に立ち、光房嫡男・煕元とその後見役である福原広世、他の庶家との間で一応の和解が成立した。
 光房の苦闘はこの後も続き、将軍・足利義満の命令をうけて周防の大内盛見を攻め、九州にも遠征するなどしたが、永享8年(1436年)、九州の地において陣没した。

毛利熙元 毛利豊元

 永享8年(1436年)、父の死去により家督を継承する。
 永享9年(1437年)、第6代将軍・足利義教より上京の命を受け畿内へと出陣することとなった。嘉吉2年(1442年)、嘉吉の乱に際しても、謀反を起こした赤松満祐を討つためにわざわざ播磨まで出陣している。長禄元年(1457年)、周防を本拠とする大内教弘が安芸分郡守護・武田信繁・信賢父子の居城・佐東銀山城に進攻した際にも、幕府の命令により吉川之経らと共に武田氏への支援に当たった。
 このように幕府への忠勤を励んだ煕元であったが、寛正4年(1463年)に毛利氏庶家の反抗を受けることとなり、諸家の中には幕府に対して讒言する者もあって、結果として領地の一部を関所として召し上げられた。
 翌寛正5年(1464年)、嫡男の豊元に知行を取り戻すように遺言して死去。所領奪回は豊元へ引き継がれることとなる。  

 応仁の乱では備後守護・山名是豊が東軍であったため、豊元も東軍に属し、京都で戦乱の日々を送った。しかし、東軍側の毛利氏への措置に不満を抱いた豊元は、文明3年(1471年)に帰国すると、西軍側の有力大名の大内政弘に味方して所領を取り返した。これ以後、毛利氏は大内氏傘下の国人領主の一つとなる。
 東軍支援の徳政一揆を鎮圧し、また大内氏の安芸支配の本拠の鏡山城を包囲した東軍を追い払うなど、大内氏の安芸への勢力伸張に貢献することとなる。この戦功により大内政弘から西条盆地の一部を所領として与えられた。また備後国では西軍の山名政豊を助け、元の主である東軍方の山名是豊の軍勢と激闘を繰り広げ、これを撃退し、世羅台地の一部を獲得した。
毛利氏の勢力拡大に尽力したが、文明8年(1476年)に33歳で病没した。  

毛利弘元 毛利興元

 文明8年(1476年)、父・豊元の死により家督を相続する。文明10年(1478年)2月、大内政弘に願い出て加冠されて、「弘」の偏諱を与えられ「弘元」と名乗る。文明14年(1482年)3月には、政弘からその領国内の豊前国京都郡津隈荘内で20町の地を預けられており、大内氏の知行制の中に取込まれている。
 明応4年(1495年)に政弘が死去すると、その後を継いだ大内義興に嫡男の興元と共に従った。だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる。
 弘元は対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れるため、明応9年(1500年)に嫡男の興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。弘元が隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている。
 永正3年(1506年)1月21日、弘元は心労により、39歳で死去した。弘元の墓所は広島県安芸高田市吉田町の悦叟院にある。 

 明応9年(1500年)3月、父・弘元がまだ8歳の興元に所領と家督を譲り、興元の弟である松寿丸(後の毛利元就)らを連れて多治比猿掛城に隠居したため、幼くして毛利氏の当主となった。
 父母の死後、名実ともに毛利氏当主となった興元は、大内義興に3ヶ条の起請文を提出して大内氏へ服属する態度を明確にした。永正4年(1507年)11月6日には大内義興の加冠を受けて元服し、「興」の偏諱を与えられて、興元と名乗った。
 興元の元服直後の永正4年(1507年)11月25日、大内義興が前将軍の足利義稙を奉じて上洛するために山口を進発すると、他の安芸国の国人たちと同様に興元も大内義興に従って上洛し、永正5年(1508年)6月に京都に入った。永正8年(1511年)8月24日の船岡山の戦いにおいて、大内義興は細川澄元と戦い勝利を収めているが、興元は船岡山の戦い以前に他の芸石衆と共に帰国していたと考えられている。
 興元の代に毛利氏は、鎌倉時代の厳島神社領の地頭職の系譜を引いて安芸国の三篠川流域に自立的に割拠した中郡衆への影響力を強め、中郡衆の三田元親,秋山親吉,井原元造,内藤元廉らを毛利家中への包摂が進んでいる。また、この頃に執権・坂下総守を解任し、志道広良を新たな執権に抜擢した。永正9年(1512年)3月3日、興元は同じく安芸国の有力国人である天野興次,天野元貞,平賀弘保,小早川弘平,阿曽沼弘秀,高橋元光,野間興勝,吉川元経と共に5ヶ条の契約を結んで安芸国人一揆を結成している。さらに、備後国中部(内郡)の国人である吉原通親,敷名亮秀,上山実広と契約を結び、団結を再確認した。以上のように興元が取り組んだ安芸・備後の国人領主との連携強化は、毛利元就にも引き継がれていく。
 永正13年(1516年)に興元は近隣の国人との合戦を繰り返しており、1月から2月にかけての志和知長野城での宍戸元源・三吉致高との合戦に始まり、2月と5月に宍戸元源と戦い、2月と7月には松尾要害において高橋氏と戦ったが、その直後の8月25日に陣中で病死。享年24。死因は酒害とされる。毛利氏の家督は2歳の嫡男・幸松丸が継ぎ、弟の元就が後見人として支えた。
 興元が毛利氏当主を務めた十数年間で行った、大内氏への服属、毛利家中の拡大、安芸・備後両国の国人領主たちとの連携、毛利氏執権の坂下総守から志道広良への交代などは、結果的に元就の代の発展の基盤固めとなったと評価されている。

北条広春 北条高広

 越後安田氏の出身であるが、同族の北条氏の当主も兼任していたという説が有力であり、北条広春とも言う。越後の安田氏は大江姓毛利氏の一族であることから毛利広春とも呼ばれる。
 これに対する異説として、広春は安田氏・北条氏どちらの当主でもなく、その庶流から上杉氏の奉行人に登用された人物「毛利(大江)五郎」であるとする解釈もある。
 永正4年(1507年)、守護代の長尾為景が、守護の上杉房能を討つという事件が起こる。その後、上杉氏と長尾氏の抗争が起きるが、広春は長尾為景に従い、越中神保氏攻めなどに従うなど、各地を転戦し、内政では長尾家の奉行職を務め、為景の側近として各種の折衝にあたった。大永4年10月14日に死去。広春の没後、安田氏は景元が、北条氏は北条高広がそれぞれ継承し、再び分裂した。 

 大永4年(1524年)もしくは享禄3年(1530年)、北条氏の家督も務めていた安田氏の安田広春が没すると、北条氏は養子の北条高広、安田氏は養子の安田景元がそれぞれ継承した。
 異説として、広春は北条氏・安田氏の庶流から上杉氏の奉行人に抜擢された「毛利(大江)五郎広春」であり、高広,景元とは系譜上無関係な存在(安田氏の娘婿であった可能性はある)と位置付けた上で、北条丹後守某の没後にその子であり若年の松若丸が家督を継いで先代の北条輔広(丹後守の父)が後見したが、この松若丸が天文3年(1534年)までに元服して「高広」と称した、とする説がある。高広の菩提寺である専称寺には、輔広と高広が祖父と孫の間柄である記録はあるものの、同寺に共に寄進の記録がある広春と高広の関係を示す記録は存在していない。
 高広は越後国の戦国大名である長尾氏に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐国の武田信玄と通じ、居城の北条城において主君・長尾景虎(上杉謙信)に対し反乱を起こした。しかし翌年、長尾軍の反攻を受け高広は降伏した。その後は景虎に再び仕え、奉行として活躍した。
 永禄6年(1563年)に上野厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任されたが、永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この際、同姓で一族と紛らわしいため北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した。高広側は元の姓である「毛利」を用いた。しかし翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれ両勢力が和解した。宙に浮いた立場となった高広は北条氏政の仲介の下、再び上杉氏に帰参し、以後は厩橋城主として上杉氏に仕えた。
 天正2年(1574年)に隠居し、家督を嫡男の景広に譲り、自身は大胡城へ入った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱に際し、子の景広と共に上杉景虎を支持する側となり、越後国内で上杉景勝と戦う。本拠の北条城などを落とされ景広は戦死。越後での勢力を失った高広は天正7年(1579年)8月、武田勝頼の傘下に入った。実父ともされる北条高定も、景勝に殺害されたと伝わる。
 天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、高広は替わって武田領の大半を支配した織田氏(織田信長)の配下で関東方面を任された滝川一益に仕え、滝川に厩橋城を明け渡し、次男を人質として差し出した。だが、直後の6月に織田信長が本能寺の変で横死したため、滝川一益は神流川の戦いを経て中央に帰還する。この際、滝川は関東諸将の人質を無条件で返還しており、高広の次男も返されている。空白地となった上州は再度北条氏の支配下となり、高広もこれに一旦服属した。しかし同年12月沼田城の真田昌幸が北条氏を離反し上杉氏へ帰順したため、北条氏は真田氏および上杉氏に対し出兵を行い、周辺諸将に動員をかけるも、高広はこれを拒否して上杉氏に帰順。北条方である那波顕宗を攻めている。しかし、厩橋城は北条氏当主の北条氏直まで出陣して攻めたてられ、高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月に厩橋城は氏直の手に渡っている。
 景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの、北条氏の越後国の本領を取り戻すことはできず没落した。

北条景広 安田景元

 上杉氏の家臣。永禄6年(1563年)、父・高広と共に厩橋城に入り、主君・上杉謙信の関東方面の政治や軍事を助けた。その武勇から鬼弥五郎と称された。天正2年(1574年)、父の隠居により家督を継承する。 天正6年(1578年)に謙信死去によって上杉氏の御家騒動である御館の乱が起きると、上杉景虎を支持して、越後国へ進軍し上杉景勝の軍と各地で戦った。景勝は「北条丹後守(景広)さえ討ち取れば、景虎は如何にもなるべし」と配下を叱咤した。
 天正7年(1579年)2月1日、景勝軍の武将・荻田長繁は、景広が府中八幡宮に参籠した帰りを狙い、数名の兵を連れて待ち伏せした。景広は長繁の槍を受け負傷し、それが致命傷となり死去した。景虎派の中心人物の一人であった景広の死によって、求心力を失った景虎派は離反者が続出し、敗北することになった。
 なお、上杉謙信が景広の父・高広にあてた書状によると、景広は畠山義隆の未亡人(三条氏女)を妻にしたとする説がある。 

 出自の詳細は不明であるが、永正12年(1515年)閏2月に長尾為景から所領安堵を受けた「安田百」が元服前の景元であったと考えられる。この安田氏は、同じ上杉家臣の安田長秀をはじめとする大見安田氏とは別氏族である毛利安田氏にあたる。
 上条定憲を中心とする長尾為景に対する反乱(上条の乱)が起きると、景元は為景に従い反乱軍と戦った。上条の乱は一進一退の状態を繰り返したが、為景の隠居によってとりあえず沈静化した。その後、景元は為景の子・長尾晴景、景虎(上杉謙信)と2代にわたり従う。天文24年/弘治元年(1555年)には、同じ大江系毛利一族である北条高広の叛意を素早く直江景綱に知らせ、謙信から賞賛を受けた。

安田顕元 安田能元

 越後国上杉氏の家臣。越後国刈羽郡安田城主。永禄年間頃に父・景元の跡を継ぐ。同じ上杉家臣の安田長秀をはじめとする大見安田氏とは別氏族である、毛利安田氏出身。上杉謙信に仕え、川中島の戦いなどで功績を挙げ、信濃国の飯山城を任された。また、「顕」の字は謙信より拝領したものである。
 天正6年(1578年)の上杉謙信死後、越後国内での後継者争いである御館の乱が勃発すると、顕元は誓紙を出して上杉景勝側に味方し、五十公野治長(後の新発田重家)や堀江宗親等の、当初は上杉景虎側についていた国人衆を調略して、景勝側に引き入れ、景勝の勝利に大いに貢献した。ところが、乱の終結後の論功行賞において、恩賞のほとんどが景勝子飼いの上田衆に与えられることとなり、新発田ら国人衆はこれに猛反発する。
 顕元は重家と景勝との仲裁に乗り出して両者の説得を試みたがうまくいかず、両者の板ばさみとなった。結局、顕元は責任を感じて、面目を保つために自害した。刈羽安田氏の家督は顕元の弟・能元が継いだ。
 顕元の死により、重家は上杉からの離反の意志を固め、翌天正9年(1581年)、陸奥国の伊達輝宗,蘆名盛隆に通じて独立した(新発田重家の乱)。 

 上杉氏の家臣。上杉二十五将の一人。同じ上杉家臣の安田長秀を初めとする大見安田氏とは別氏族にあたるため、毛利安田氏と呼ぶこともある。
 天正6年(1578年)、謙信の死後に起こった御館の乱では、兄・顕元と共に上杉景勝に味方する。しかし顕元は、戦後の論功行賞において景勝の直臣・上田衆が恩賞を独占したことにより、猛反発する新発田重家や堀江宗親(上杉景虎側だったが顕元が味方に引き入れた)らを仲裁するも、失敗し責任を感じて自害したため、能元が家督を相続する。天正8年(1580年)9月25日、本領を安堵され、さらに堀江宗親の旧領も与えられている。
 天正10年(1582年)から数年に渡って起こった新発田重家の乱の鎮圧に参加。その中の放生橋の戦いにおいて殿軍を務めた際に片足を負傷。終生治ることのない後遺症が残ったため、以後「跛上総」と渾名された。
 天正14年(1586年)、上杉氏が豊臣氏に臣従。能元は内政手腕に優れていたため、景勝が領国を留守にする際には、政務を任せられるようになる。また、文禄元年(1592年)に文禄の役が起こると、藤田信吉と共に越後春日山城の留守居役を務めた。
 慶長3年(1598年)、上杉氏が会津120万石へ国替えになると、浅香城と二本松城の守備を命じられる。伏見城に在城していた景勝から神指城の築城、道橋の普請、浪人の召抱え、武具の整備などを命じられた。この頃、上杉氏に仕官した前田利益と親交を結んでいる。
 慶長5年(1600年)、上杉氏征伐のため会津へ侵攻する徳川家康率いる東軍に備え、小峰城を守備し、革籠原にて島津忠直と共に一番隊を率いることになっていた。しかし東軍は反転し関ヶ原の戦いにおいて石田三成が率いる西軍を破った。そして慶長6年(1601年)、上杉氏が出羽国米沢30万石に減封されると、能元も浅香城、二本松城を退去した。
 米沢に移ってからは、直江兼続などと共に城下町の整備や町割りなどを行い、能元の知行高は4330石となった。慶長17年(1612年)、直江兼続,水原親憲,岩井信能,山岸尚家,平林正恒と共に十七箇条の家中法度を制定する。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出陣し、安田隊は500の兵で大野隊に突撃し、見事敵軍を撃退した。しかし、合戦後、徳川家から能元には感状や褒美など何も与えられなかった。これは、徳川氏との外交を担当した直江兼続との関係が、関ヶ原の戦い以降に険悪になったためといわれている。このことに対して能元は、「感状を賜らなかったからといって、そのことを決して不名誉とは思わない。それに自分は殿のために戦ったのであって、大御所様や将軍様のために戦ったのではない」と、関ヶ原の戦いで主家を徳川との戦いに導いておきながら大坂の陣で秀忠から感状を貰って喜んでいる兼続に皮肉を込めて語っている。それを聞いた兼続は何も答えることができなかったという。
 元和8年6月25日(1622年8月2日)、66歳で死去。家督は那波氏から養子として迎えた俊広が継いだ。