<神皇系氏族>天神系

OD01:織田親真  織田親真 ― 梶川平九郎 OD17:梶川平九郎


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梶川平九郎 梶川高秀

 出自には諸説ある。もともとは、紀梶臣姓にして武内宿禰の男・紀角宿禰の後裔という。詳細は不明だが、織田氏の庶流とも言われ、平九郎から梶川平左衛門尉高秀,弥三郎高盛へと続く。
 また、織田の氏族の梶川平九郎信時は、橘姓楠木彦右衛門正治の勇材を聞き、婿となして家督を譲ったという。正治は河内没落後、美濃国池尻に住し、数年にして尾張に出で織田家に仕え、池尻彦右衛門と号した。 

 平九郎(宗玄)の長男とされる。はじめ尾張国丹羽郡の楽田城に住したが、後に中島郡奥村に移ったという。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの際には中島砦を守った。
 永禄11年(1568年)10月2日、信長上洛直後の摂津池田城攻めの時、戦死。水野金吾内の梶川平左衛門が奮戦して討死した旨、『信長公記』に記載されている。水野金吾とは、25年も以前に没した水野忠政であり、かつて忠政に属していたという意味と思われる。高秀の弟・秀盛が水野信元に属していたことは『張州雑志抄』などに記されているから、高秀も忠政からその子・信元に属したと考えられる。

梶川高盛 梶川頼照

 永禄11年(1568年)に父が戦死したため、家督を継いで信長に仕えた。元亀4年(1573年)の槇島城の戦いでは宇治川渡河の先陣を務めるという武功を挙げた。その後は佐久間信盛の与力として石山戦争に参加して武功を挙げている。
 天正10年(1582年)6月に信長が本能寺の変で死去すると、その次男である織田信雄に仕えた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、尾張国蟹江城攻めで武功を挙げている。その後は織田秀信に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける岐阜城攻防戦では激しく戦ったとされるが、『尾張群書系図部集』では文禄5年(1596年)3月26日死去とされている。 

 通称の与惣兵衛で知られる。赤穂事件の発端において浅野長矩が吉良義央に対し江戸城内で刃傷に及んだ際、長矩を取り押さえた人物である。
 幕府旗本・土岐頼泰の次男として生まれる。母は旗本・山岡伝右衛門景重の娘。明暦3年(1657年)6月25日、将軍・徳川家綱にはじめて拝謁。寛文3年(1663年)11月19日から御書院番として出仕。寛文4年(1664年)8月11日、姉が嫁いでいた梶川分重が嗣子なく没したため、その養子となって家督を継いだ。貞享元年(1684年)8月28日に起こった若年寄・稲葉正休による大老・堀田正俊への殿中刃傷の際にも居合わせたといわれる。
 元禄9年(1696年)4月25日、本所奉行に就任。元禄10年(1697年)正月22日、御腰物奉行頭。元禄13年(1700年)7月18日、大奥御台所付き留守居番となる。
 元禄14年(1701年)3月14日、江戸城大廊下で浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、長矩を取り押さえた(取り押さえたのは高家の京極高規との説もある)。この手柄で3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となった。この事件の仔細を『梶川与惣兵衛日記』に残した。長矩が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだ話もこの日記を根拠とするものである。
 宝永4年(1707年)正月15日、西城持筒頭に就任し、正徳元年(1711年)4月1日、武勇の者が選ばれる槍奉行に選ばれた。享保4年(1719年)2月7日、職を辞し寄合(無役の旗本)に列する。享保5年(1720年)5月23日、隠居して養老料として切米300俵を受けた。享保8年(1723年)8月8日に死去。享年77。