<神皇系氏族>天神系

OD03:織田信秀  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田長益 OD10:織田長益


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織田長益 織田長孝

 有楽如庵と号したため、織田有楽斎として言及される場合も多い。織田信長の弟の一人であるが、信長とは年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。母は信秀の側室のうちの一人と推測されるも不詳。
 天正2年(1574年)、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修する。以降、信長の長男・織田信忠の旗下にあったと思われ、甲州征伐などに従軍している。甲州征伐では木曽口から鳥居峠を攻め、木曽勢に助力して鳥居峠を攻略。降伏した深志城の受け取り役を務める。また、森長可,団忠正と共に上野国に出兵し、小幡氏を降伏させている。
 本能寺の変の際は、信忠とともに二条新御所にあったが、長益自身は御所を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされる。変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務める。小牧・長久手の戦いでは、信雄方として徳川家康に助力。蟹江城合戦では大野城の山口重政救援、下市場城攻略にも参陣しており、蟹江城の滝川一益の降伏を仲介した。戦後、家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。また、佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいう。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。
 天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国島下郡味舌2000石を領した。この頃、剃髪して有楽と称す。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。秀吉死後、家康と前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護している。
 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男・長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦。寡兵ながら小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦して戦闘し、一時は本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退している。また、長孝が戸田重政・内記親子の首を取る。更には有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げる。戦後にその功績を認められ、有楽は大和国内で3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられた。
 戦後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐した。この頃、建仁寺の子院・正伝院(現在の正伝永源院)を再建し、院内に茶室・如庵を設けた。正伝永源院には長益夫妻,孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男・頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。
 大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として、豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、家康・秀忠に対し、「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て、豊臣家から離れた。
 大坂退去後は京都に隠棲し、茶の湯に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、4男・長政,5男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、有楽本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1622年)12月13日、京都で死去。享年75。

 関ヶ原以前には美濃国大野村で500石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、長益と共に東軍に属する。本戦においては西軍の武将である戸田重政に槍を突き、家来らとともに討ち取るという白兵戦を演じ、また重政の嫡男である戸田内記も討ち取るという武功を挙げた。この時、村正の作である槍を使用しており、戦後検分した徳川家康の指を傷つけたという逸話がある。この武功により美濃国大野郡内において1万石の所領を与えられ、野村藩を立藩した。慶長11年(1606年)7月5日に死去。
 なお、長孝は長益の長男であるものの、生母は正室(平手政秀の娘)ではなく、正室所生の次男・頼長が嫡男であった。そのため、長孝の関ヶ原の功による加増分は長益の所領に含まず、独立し別家となる形で治めることとなった。

織田頼長 織田長好

 天正10年(1582年)、織田長益の次男として誕生。生母は長益正室の平手政秀の娘・雲仙院殿。そのため、長益の嫡男であったと考えられる。
 父・長益とともに豊臣秀頼に仕えた。慶長13年(1608年)1月、秀頼の命により江戸幕府に対する年賀の使者として江戸に赴く。慶長14年(1609年)7月、公家・猪熊教利の逃亡を助けて処罰され、浪人になったようである(ただし『徳川実紀』では、猪熊教利の逃亡に関与したのは弟の長政としている)。
 大坂の陣に際して、豊臣氏に帰参したと思われる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では長益とともに大坂城に籠城し、二の丸玉造口などを守備する。雑兵を合わせて1万人あまりの部隊を指揮したという。同年12月、自ら率いる部隊内の喧嘩騒ぎにより、徳川方の藤堂高虎隊が織田隊方面から攻撃を開始して谷町口の戦いが起きるが、頼長は病気と称して一切の指揮をしなかったという。これは藤堂高虎と頼長とが示し合わせた上での謀略ともされている。
 元和元年(1615年)4月、大坂城を退去する。一説には、豊臣氏の総大将の地位を望んだものの、叶わなかったためという。以後は京都に隠遁し、茶の湯に専念して有楽流を継承する。なお、頼長は豊臣氏の部将であったため、長益は領地を分与することを控え、幕府も領地を与えず、大名に列することはなかった。
 元和6年(1620年)9月20日、京都で死去、39歳。京都東山の長寿院に葬られた。正室は無し。ただし、『系図纂要』などによれば、教如の娘を頼長室としている。

 元和6年(1620年)9月20日、父・頼長が39歳で死去し、その翌年の元和7年(1621年)12月13日に祖父・長益が75歳で死去した。長益は長好を嫡孫として扱っており、隠居料1万石を相続させたかったようである。しかし、江戸幕府に対して後継者としての届出を出さないうちに死去してしまったため、相続はかなわなかったようである。おそらく、長好の成長を待っていたものと思われる。 近江安土城跡の信長廟に石灯籠を寄進している。この石灯籠には、寄進日を「天正十一年六月初二日」と刻んでいるものの、故意に時期にさかのぼらせたようである。また、「織田有楽像」(正伝永源院蔵)も描かせている。
 成長した長好は、茶の湯有楽流を継承し、茶人として名を成す。一方で、将軍徳川秀忠の長女・千姫(元豊臣秀頼室)を通じ、幕府に召抱えを工作していたようである。生存中は3000石の合力米を支給されていたという。
 慶安4年(1651年)5月20日死去、享年35。正室,子女ともにいなかった。なお、墓地は京都の建仁寺と鎌倉の建長寺にある。その死去に際し、織田高重や織田貞置,千玄室らに宛てた『織田三五郎遺品分配目録』は、茶人大名の所持名物を示す貴重な資料と評価されている。

織田長政 織田長清

 徳川家康の小姓となり、3000石を与えられる。慶長10年(1605年)4月16日、従五位下丹後守に叙任、後に左衛門佐に改める。
 元和元年(1615年)8月12日に父から大和・摂津国内で1万石を分け与えられる。長政は大和国式上郡山口村に陣屋を設置、後に戒重村に移転した。こうして大和戒重藩は成立する。同時に弟・尚長も1万石を分け与えられており、大和柳本藩を設立した。長益の長男(庶子)・長孝は既に独立した大名(美濃野村藩主)になっていたこと、次男(嫡子)・頼長は豊臣家の部将であったこと、3男・俊長は出家していたこと、もしくは不仲であったことから領地を分け与えられなかったと考えられる。
 万治2年(1659年)12月23日に隠居し、長男の長定に家督を譲る。以後、ト斎と号する。寛文10年(1670年)2月18日死去、84歳。奈良県の慶田寺に葬られる。

 宇陀松山に生まれる。天和元年(1681年)11月25日、戒重藩主・織田長明の養子となる。天和2年(1682年)2月11日、将軍・徳川綱吉に御目見する。天和3年(1683年)5月2日、養父・長明の隠居により家督を相続する。元禄5年(1691年)、駿府加番を命じられる。元禄15年(1701年)、再び駿府加番を命じられる。
 宝永元年(1704年)4月11日、陣屋を戒重村から岩田村(芝村と改称)に移転する許可を得る。ただし、工事はなかなか進まず、実際に移転したのは延享2年(1745年)のことであった。正徳4年(1714年)2月13日に隠居し、3男・長弘に家督を譲る。享保7年(1722年)10月7日死去、享年61。墓所は奈良県の慶田寺。太田守一に『織田真紀』を編纂させるなど、文教面での功績が目立つ。