| OD03:織田信秀 | 織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田長益 | OD10:織田長益 |


| リンク | OD11・{MD02}{TJ04}{F840} |
| 織田長益 | 織田長孝 |
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有楽如庵と号したため、織田有楽斎として言及される場合も多い。織田信長の弟の一人であるが、信長とは年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。母は信秀の側室のうちの一人と推測されるも不詳。 |
関ヶ原以前には美濃国大野村で500石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、長益と共に東軍に属する。本戦においては西軍の武将である戸田重政に槍を突き、家来らとともに討ち取るという白兵戦を演じ、また重政の嫡男である戸田内記も討ち取るという武功を挙げた。この時、村正の作である槍を使用しており、戦後検分した徳川家康の指を傷つけたという逸話がある。この武功により美濃国大野郡内において1万石の所領を与えられ、野村藩を立藩した。慶長11年(1606年)7月5日に死去。 |
| 織田頼長 | 織田長好 |
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天正10年(1582年)、織田長益の次男として誕生。生母は長益正室の平手政秀の娘・雲仙院殿。そのため、長益の嫡男であったと考えられる。 |
元和6年(1620年)9月20日、父・頼長が39歳で死去し、その翌年の元和7年(1621年)12月13日に祖父・長益が75歳で死去した。長益は長好を嫡孫として扱っており、隠居料1万石を相続させたかったようである。しかし、江戸幕府に対して後継者としての届出を出さないうちに死去してしまったため、相続はかなわなかったようである。おそらく、長好の成長を待っていたものと思われる。 近江安土城跡の信長廟に石灯籠を寄進している。この石灯籠には、寄進日を「天正十一年六月初二日」と刻んでいるものの、故意に時期にさかのぼらせたようである。また、「織田有楽像」(正伝永源院蔵)も描かせている。 |
| 織田長政 | 織田長清 |
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徳川家康の小姓となり、3000石を与えられる。慶長10年(1605年)4月16日、従五位下丹後守に叙任、後に左衛門佐に改める。 |
宇陀松山に生まれる。天和元年(1681年)11月25日、戒重藩主・織田長明の養子となる。天和2年(1682年)2月11日、将軍・徳川綱吉に御目見する。天和3年(1683年)5月2日、養父・長明の隠居により家督を相続する。元禄5年(1691年)、駿府加番を命じられる。元禄15年(1701年)、再び駿府加番を命じられる。 |