| NH05:真田頼昌 | 楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 ― 真田頼昌 ― 真田信之 | NH06:真田信之 | ● |


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| 真田信之 | 真田信吉 |
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永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる。父の兄(叔父)の信綱と昌輝が天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでともに戦死した後、信幸(信之)は10歳で信綱の嫡女の清音院殿を妻に迎えているが、このいとこ同士の婚姻の背景には、父・昌幸が真田家当主としての正当性を確保する意図があったとされる。 |
生年には諸説あり、『沼田日記』では文禄4年(1595年)、『滋野世紀』では慶長元年(1596年)、『天桂院殿御事績稿』の享年42からは文禄2年(1593年)の生まれとなる。 |
| 真田信直 | 真田信音 |
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沼田は信吉死後、信直の兄の熊之助が統治していたが、寛永15年(1638年)に幼くして没した。当時は信直も兵吉を名乗る3歳児だったため、信直の叔父に当たる真田信政が相続した。信直には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与され、小川城跡の二の丸を陣屋として、寛永16年(1639年)から明暦3年(1657年)まで母親と共に居住した。 |
上野国沼田藩4代藩主・真田信直の長男として誕生。幼名は仙千代。 |
| 真田信政 | 真田幸道 |
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慶長19年(1614年)からの大坂の陣に兄の真田信吉と共に参戦したが、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄と共に敗走した。元和3年(1617年)6月、従五位下大内記に叙任。その後、従四位下に昇叙し、侍従を本官に大内記を兼任する。元和8年(1622年)10月、父・信之の松代城転封に伴い、その領内で1万7000石を分知され大名に列する。寛永11年(1634年)に沼田城主であった信吉が早世し、甥の熊之助が相続すると、幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。寛永16年(1639年)、熊之助の早世により沼田藩主となる。この際、相続した沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟・信直に分与し、それまで領有していた松代藩内分の1万7000石は弟の信重に譲った。 |
第2代藩主・真田信政の6男(5男とも)。万治元年(1658年)6月14日、父が死去したため、2歳で家督を継ぐ。しかし、従兄の沼田藩主・信直がこれに不満を抱いて家督争いが起こった。これは祖父の信之が幸道の後見人となることで鎮めたが、信之も同年のうちに死去したため、内藤忠興が後見人となった。 |
| 真田幸貫 | 真田幸教 |
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寛政3年(1791年)9月2日、老中首座として寛政の改革を主導した松平定信の長男として白河藩の江戸藩邸で生まれる。ただし、側室の子であったこともあり、幼名を次郎丸と名付けられて、公的には次男とされた。定信の正室の子(松平定永)がわずか11日後に生まれており、こちらは太郎丸と名付けられて長子・嫡男と扱われた。 |
真田幸良の長男として生まれる。松平定信は曽祖父にあたる。父・幸良は早くに死去していたため、庶子ではあったが祖父・幸貫の嗣子となる。 |
| 道鏡慧端 | |
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臨済宗の僧侶。正受老人の名で知られている。19歳で出家し、至道無難などの指導を受ける。臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴の師で、白隠が大悟したと思い込み慢心していたところを厳しく指導し、正しい悟りに導いた。 |