<神皇系氏族>天神系

NH05:真田頼昌  楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 ― 真田頼昌 ― 真田信之 NH06:真田信之


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真田信之 真田信吉

 永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる。父の兄(叔父)の信綱と昌輝が天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでともに戦死した後、信幸(信之)は10歳で信綱の嫡女の清音院殿を妻に迎えているが、このいとこ同士の婚姻の背景には、父・昌幸が真田家当主としての正当性を確保する意図があったとされる。
 その後、信幸は武田家の人質として過ごし、天正10年(1582年)3月に武田家が織田信長の甲州征伐によって滅ぼされると、同じく人質だった母の山手殿と共に上田の父の元へと逃れた。信長死後は一時期、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた。だが、やがて徳川家康に臣従した武田遺臣・依田信蕃や叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという。
 天正12年(1584年)、真田家は信濃小県郡の国人・室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀正武を暗殺し、小県郡の同族であった根津昌綱を懐柔し真田氏は小県を支配下に治めた。
 天正13年(1585年)、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って、真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。昌幸・信幸は第一次上田合戦で徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、家康重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた。天正18年(1590年)、沼田領割譲問題から発生した小田原征伐で、信幸は上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と弟の信繁は西軍に付いたのに対し、家康の養女かつ徳川重臣の本多忠勝の娘の小松姫を妻とする信幸は家康らの東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に本多忠勝の息子で信幸の義弟(妻・小松姫の弟)である本多忠政と共に父・昌幸の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。信幸は、信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、弟・信繁も信幸の意を汲み開城に応じた。信幸は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。
 戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めたとされる。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
 信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。元和8年(1622年)10月、信濃松代に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信直(信利)が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。
 同年10月17日に死去。享年93。墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したという。百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされ、家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられている。 
 また、93歳と当時としては非常に長寿であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった。51歳の時にはマラリアを病み、周期的にマラリアの発作を起こしていたとみられる。76歳のときには腫物に苦しめられている。

 生年には諸説あり、『沼田日記』では文禄4年(1595年)、『滋野世紀』では慶長元年(1596年)、『天桂院殿御事績稿』の享年42からは文禄2年(1593年)の生まれとなる。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では参戦したものの、豊臣軍に敗れて逃走したと言われている。元和元年(1615年)、従五位下河内守に叙任。翌年、父・信之が上田に移ったのち、沼田城主として3万石の所領を相続した。当時の沼田3万石は独立した藩ではなく、本家松代藩の分領(分地)であった。また、真田家は沼田においては家臣が直接自分の領地である村を支配する地方知行を行っていた。
 寛永4年(1627年)8月、酒井忠世の娘(松仙院)と婚姻。父・信之はこのことに喜んで家臣の出浦盛清に喜びの書状を送っている。しかし、松仙院との間には長姫しか生まれず、側室との間に、熊之助,信利(信直)の2子を儲けた。ただし、信吉は、側室腹の男子について、父・信之にも存在を隠していたという。また、松仙院は年代は不明であるが、信吉と離別し、真田家を去って酒井忠世のもとで生涯を終えたという。
 寛永9年(1632年)7月、肥後藩54万石の藩主であった加藤忠広が改易されると、忠広の子・藤松とその母、そして藤松の妹が信吉に預けられた。寛永11年(1634年)7月、城下町の鍛冶に時鐘を作らせ、それを沼田城の三の丸に懸けられた。現在も沼田城内に時鐘が残っている。
 寛永11年(1634年)11月28日、父に先立って江戸屋敷において疱瘡のため42歳で死去。遺体は迦葉山龍華院に送られて荼毘に付され、天桂寺に葬られた。跡を継いだ長男の熊之助も早世し、信吉の所領は次男の信利(信直)と弟の信政に分割相続された。 

真田信直 真田信音

 沼田は信吉死後、信直の兄の熊之助が統治していたが、寛永15年(1638年)に幼くして没した。当時は信直も兵吉を名乗る3歳児だったため、信直の叔父に当たる真田信政が相続した。信直には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与され、小川城跡の二の丸を陣屋として、寛永16年(1639年)から明暦3年(1657年)まで母親と共に居住した。
 明暦2年(1656年)、祖父の松代藩主・真田信之が隠居したのに伴い、沼田領主であった叔父・信政は本家松代藩を相続し、沼田領は代わって信直が領有することになる。信政は2年後の明暦4年(1658年)2月に死去した。松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出た。一方で信直は自身が信之の長子信吉の子であることを理由として「真田家の、松代藩の正統な後継者は自分である」と幕府に訴え出て、幸道の本藩相続撤回を求めた。
 信直には正室の実家の土佐藩や老中・酒井忠清、信之の長女・光岳院殿の嫁ぎ先である高力氏が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このとき、幕命により沼田領は松代藩から分離独立させられ、信直を藩主として沼田藩として立藩した。
 これ以降、信直は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した。のちに沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった。当時、申告された石高に相当して参勤交代の行列規模、御手伝普請を命じる制度になっており、実高6万石に対し14万石相当のこれを満たすために高率の年貢をかけられた沼田領民の負担は深刻であった。また、江戸の藩邸も豪奢な造りに改装されたため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。
 延宝8年(1680年)、信直は両国橋改修の用材の調達を材木商大和屋から請負った。しかし、折からの台風により利根川,片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681年)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易となり、信直は山形藩奥平家にお預けとなった。長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男の源三郎(武藤信秋)は郡上藩・遠藤常春に、3男の外記(栗本直堅)・4男の辰之助は上田藩・仙石家にそれぞれお預けとなった。一説では、辰之助は長姫(千種有能室)の養子となり、初め真田修理亮信明、後に千種有純と名乗ったとも言われている。尚姫もまた長姫の養女となり、公卿の久我通誠に嫁いでいる。翌天和2年正月には、幕府の命令によって沼田城が破却され、堀も埋められた。その後、信直は奥平家の宇都宮への転封に伴って山形から宇都宮に移り、同地で没した。享年54。
 長男の信音は後に許され、旗本として1000俵を与えられたが、無継絶家で改易となる。一門の真田信興がその名跡を継ぐが、信興の子の政賢の不行跡のため、改易追放となる。この時、父・信興の兄弟の信清も連座して改易となった。 

 上野国沼田藩4代藩主・真田信直の長男として誕生。幼名は仙千代。
 寛文9年(1669年)、従五位下弾正忠に叙任。天和元年(1681年)、幕府から命じられた普請工事の遅滞や磔茂左衛門一揆に代表される治世不良により、沼田藩は改易される。このため、父・信直は山形藩奥平家に、嫡男の信音も赤穂藩浅野家にお預けとなった。元禄元年(1687年)に許され、旗本として1000俵を与えられ、旗本寄合席に列する。
 元禄7年(1694年)、官名を采女正に改める。元禄10年(1697年)、武蔵国足立郡・男衾郡,伊豆国君沢郡・田方郡の4郡で1000石を与えられた。宝永4年(1707年)、52歳で死去した際、嗣子が無かったため無継絶家で改易となる。一門の真田信興がその名跡を継ぐが、信興の子の政賢の不行跡のため改易追放となった。この時、先代信興の兄弟の真田信清も連座して改易された。 

真田信政 真田幸道

 慶長19年(1614年)からの大坂の陣に兄の真田信吉と共に参戦したが、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄と共に敗走した。元和3年(1617年)6月、従五位下大内記に叙任。その後、従四位下に昇叙し、侍従を本官に大内記を兼任する。元和8年(1622年)10月、父・信之の松代城転封に伴い、その領内で1万7000石を分知され大名に列する。寛永11年(1634年)に沼田城主であった信吉が早世し、甥の熊之助が相続すると、幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。寛永16年(1639年)、熊之助の早世により沼田藩主となる。この際、相続した沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟・信直に分与し、それまで領有していた松代藩内分の1万7000石は弟の信重に譲った。
 明暦2年(1656年)、父が隠居したため松代藩の家督を相続したが、わずか2年で死去した。信政は、信之が後継の問題で居座っていると思い込み、父子間で対立があったとされる。そのためか、遺言状には信之のことは一切書かれておらず、それを知った信之は立腹している。
 長男・信就を故あって相続対象から外したが(寄合として別家を立てる。のち7男の信弘が幸道の跡を相続)、次男の信守は17歳の正保2年(1645年)、異母弟の3男・信武(16歳)を殺害して自刃、4男の信福は夭折するなど後継者に恵まれず、死の直前に生まれたばかりの幼少の6男・右衛門(幸道)を後継指名している。末期であり幸道も幼少でもあるため、幸道の従兄の支藩沼田藩主・信直がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あったが、信政の遺言状や祖父の信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより、右衛門の相続と決定した。 

 第2代藩主・真田信政の6男(5男とも)。万治元年(1658年)6月14日、父が死去したため、2歳で家督を継ぐ。しかし、従兄の沼田藩主・信直がこれに不満を抱いて家督争いが起こった。これは祖父の信之が幸道の後見人となることで鎮めたが、信之も同年のうちに死去したため、内藤忠興が後見人となった。
 寛文4年(1664年)1月13日、将軍・徳川家綱に御目見する。寛文9年(1669年)12月25日、従五位下・伊豆守に叙任する。後に従四位下へ昇進する。延宝2年(1674年)6月28日、初めてお国入りする許可を得る。藩主としては領内の検地を行い、幕府から命じられた江戸城普請、朝鮮通信使の饗応役などで活躍している。しかしこれらの相次ぐ出費のために、藩財政が悪化した。
 武に優れ、自らは関口流柔術や神道流剣術の使い手であった。また、その武道を『松代侯詩集』などの蔵書にしてまとめている。また、松城を松代と改めた。元禄7年(1694年)8月21日、一族の真田信親へ新田2千石を分知する。ただし、元禄16年12月25日(西暦では1704年)、信親の養子であった信弘と養子縁組したことで、新田2千石は戻される。享保12年(1727年)5月27日、江戸で死去した。享年71。
 幸道の実子・源次郎は早世していたため、甥(長兄で旗本寄合の信就の7男)の信弘を養嗣子として迎え、跡を継がせた。後継者から外された長兄の信就と幸道は仲が良かったとされている。 

真田幸貫 真田幸教

 寛政3年(1791年)9月2日、老中首座として寛政の改革を主導した松平定信の長男として白河藩の江戸藩邸で生まれる。ただし、側室の子であったこともあり、幼名を次郎丸と名付けられて、公的には次男とされた。定信の正室の子(松平定永)がわずか11日後に生まれており、こちらは太郎丸と名付けられて長子・嫡男と扱われた。
 文化12年(1815年)、松代藩7代藩主・真田幸専の養嗣子となり、翌年には真田幸善と名乗り、先々代の幸弘の娘が遠州浜松藩主・井上正甫に嫁いで生んだ雅姫を正室とした。文政6年(1823年)の幸専の隠居により家督を継ぎ、藩政を担当する。天保の改革が始まると、水野忠邦によって外様席から譜代席に移され、老中に抜擢されて改革の一翼を担った。藩政においても佐久間象山をはじめとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせ、幕末における人材の育成を行った。また殖産興業,産業開発,文武奨励などにも努め、藩校としては文武学校開設の基礎を築いている。文武学校では兵法書や万川集海など忍術書を剣術の師である窪田清音の協力を得て集めたと言われる。鉄砲に強い関心を持ち、近臣に命じて、星山流,中島流,求玄流,外記流,実用流の伝統砲術、西洋砲術を学ばせ各流の長所を集めた真田家流と称される砲術の一派を確立した。 1832年(天保3年)には産物会所を設置した(明治2年に松代商法社に改める)。また文人としても優れ、画や和歌に秀逸は作品を数多く残した。しかし晩年には、藩政改革の路線を巡る対立から重臣達による内紛を招き、これが幕末まで尾を引いた。
 弘化4年(1847年)3月24日には善光寺地震が発生し、松代藩領内でも大きな被害が生じた。幸貫が御用番・牧野忠雅に宛てた報告書や、月番家老・河原綱徳の手記『むしくら日記』は被害状況を知る上で貴重な記録となっている。
 江戸在府中には、府内をお忍びで歩くことを好んだという。真田家への養子入りの話が出た折には浪人姿になって松代藩の隅々を見聞して回ったともいうが、こちらは伝説の域を出ない。
 幸貫は正室・雅姫との間に4男5女を儲けたが、いずれも夭折・早世した。そこで真田家の血筋を求め、幸専の妹が肥前島原藩主・松平忠馮に嫁いで生んだ10男・幸忠を養嗣子に迎えたが、これも数え15歳で早世する。幸貫には実子として幸良がいたが、真田家に養子入りする前年に生まれたため、幕府には実父・定信の末子と届け出ていた。結局、この実子を養嗣子として迎え入れたが、数え30歳で先立たれたため、その庶長子である幸教が嫡子(幸貫にとっては嫡孫)となった。嘉永5年(1852年)5月6日、幸貫は隠居して孫の幸教に家督を譲ると、6月8日に62歳で死去した。窪田清音に刀工の源清麿を弟子入り斡旋したのは幸貫である。 

 真田幸良の長男として生まれる。松平定信は曽祖父にあたる。父・幸良は早くに死去していたため、庶子ではあったが祖父・幸貫の嗣子となる。
 嘉永5年(1852年)5月6日、幸貫の隠居により家督を継ぐ。翌年、ペリーが浦賀に来航すると、横浜の応接場の警備を務めた。その後も江戸湾の第六台場や本牧などの警備などを務めている。藩政では、財政再建のため安政2年(1855年)に藩士の知行借上を行った。しかし、祖父と違って若年で統率力に乏しく、しかも病気がちで、藩内で佐幕派の恩田派と尊王派の真田派が争うのを制すことができず、結果として幸貫が登用した佐久間象山などの優秀な人材を使いこなすことができなかった。象山が尊王派の刺客によって暗殺されるに及んで、松代藩では真田桜山率いる真田派が実権を掌握する。
 文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の上洛に際し、松代藩が将軍留守中の横浜港警備を命じられると、藩内では病弱な幸教の隠居が議論されるようになる。そこで、はじめ下野佐野藩主・堀田正衡の7男・智七郎を仮養子として届け出、そののち養子候補として日向高鍋藩主・秋月種任の3男・政太郎と肥後熊本藩主・細川斉護の3男・澄之助の名が上がるが、結局、伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男・幸民が養嗣子に迎えられた。
 慶応2年(1866年)3月9日、幸民に家督を譲って隠居する。隠居後、側室との間に4人の子を儲け、このうち幸世は成人の後別家を立て、男爵となっている。明治2年(1869年)10月18日死去。享年35。

道鏡慧端

 臨済宗の僧侶。正受老人の名で知られている。19歳で出家し、至道無難などの指導を受ける。臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴の師で、白隠が大悟したと思い込み慢心していたところを厳しく指導し、正しい悟りに導いた。
 寛永19年(1642年)、飯山城にて出生したが、出生にまつわる事情には定かではない部分が多い。慧端が飯山城で出生した事情は、松代藩主・真田家と飯山藩主・佐久間家との婚姻関係や、佐久間家が跡継ぎを得られずに断絶した後に飯山藩を継いだ桜井松平家との交流関係になんらかの関係があると推測される以上のことは詳らかでない。
 慧端が13歳のとき、城主・松平忠倶に講義をするために登城してきた禅僧に「子ニ個ノ観世音菩薩アリ」(自分の心の中に観音を見つけよ)と告げられたことをきっかけに自己探求をはじめ、16歳のときに悟りを得たと伝えられている。仏道への帰依の念を抱いた慧端は、19歳のとき、松平忠倶の参勤交代に随伴して江戸に赴き、江戸麻布東北庵の至道無難のもとで出家した。翌寛文元年(1661年)には印可を与えられて、道鏡と字した。印可を得た慧端は東北諸国の行脚に出て、3年後に東北庵に帰還した。
 3年間の行脚の間に、江戸では東北庵が禅河山東北寺という一大寺院に改築されており、無難は慧端を住職に推した。しかし、慧端は固辞し、寛文6年(1666年)、飯山に帰った。大成した慧端の帰郷を喜んだ藩主の忠倶は、小庵を建立して慧端に贈った。慧端はこの小庵に、無難から与えられた「正受」の扁額を掲げ、正受庵と号した。
 寛文7年(1667年)には、東北寺の後継者が無難の弟子の洞天に定まったことを期に、小石川至道庵に隠棲していた無難のもとに赴き、再び修行に勤しんだ。延宝4年(1676年)の無難入寂の後、慧端は再び飯山に帰った。このとき、生母も剃髪して慧端の弟子となり、李雪と称した。飯山に戻った慧端に、藩主・忠倶は一山の建立と200石の寄進を申し出たが、「沙門は三衣一鉢有れば足る。何ぞ民の利を奪わんや」と述べて謝絶した。
 宝永5年(1708年)には、白隠が正受庵の慧端を訪れた。来庵に先立って、高田英巌寺にて聴講していた白隠は、鐘の音を開いて悟りを開いていた。しかし、聴講に同席していた慧端の弟子の宗覚が白隠の慢心ぶりを危ぶみ、慧端を訪れることを勧めたのであった。慧端は来庵した白隠の慢心を見抜き、山門から上ってきた白隠を蹴落として、その慢心を打ち砕いた。慧端は、時には廊下から蹴落しさえする辛辣な仕方で白隠を指導し、ついに白隠も正受を認められた。
 享保6年(1721年)に80歳で死去するまでの45年間、水戸光圀からの2度の招請も辞退し、臨済禅のために精進する日々を正受庵で送った。慧端は生涯にわたって世俗的な栄達に目を向けることなく、死に至るまで僧階は最下位の蔵主のまま、その住庵の正受庵も寺格を有さない状態のままである。