| H501:平 忠通 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 石田為久 | H525:石田為久 | ● |

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| 石田為久 | 石田正継 |
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| 治承・寿永の乱において鎌倉方として源義仲討伐軍に加わる。寿永3年(1184年)正月21日、義仲が粟津の戦いで敗北し、北国へ落ち延びる道中、馬が粟津の松原で深田にはまり込んで動けなくなったところを、矢を放って義仲の兜の内側を射抜いた。義仲が倒れたところを為久の郎党2人が駆けつけ、その首を取った(『平家物語』)。『吾妻鏡』にも義仲が相模国住人・石田為久により討たれたことが記されている。なお、『愚管抄』では義仲を討ち取ったのは伊勢義盛としている。 |
出自は、近江国坂田郡石田村出身の地侍、または京極氏の被官とする説があり、学問の志が深く、才文武を兼ね、学は和漢を通じ、万葉集を紐解き、和歌を詠ずる風流心があった。醒ヶ井の松尾寺から六十巻の書籍を借り読破し、三成にも読ませようとした。父は石田為広(為成,仲成,為厚とも)で、法名は前陸奥入道清心といわれるが詳細は不明。 |
| 石田正澄 | 石田三成 |
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石田正継の長男として誕生、羽柴秀吉が中国征伐を命じられた頃(天正5年前後)に、弟の三成と共に秀吉に仕官した。 |
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で誕生。幼名は佐吉。羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継,兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。 |
| 石田辰子 | 石田重家 |
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石田三成の3女として誕生した。慶長3年(1598年)頃、豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。 |
天正11年(1583年)または天正15年(1587年)、石田三成の嫡男として誕生したとされる。 |
| 石田佐吉 | 杉山重成 |
| 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り、小早川秀秋,田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。 |
石田三成の次男として誕生。慶長4年(1599年)より豊臣秀頼に小姓として仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父・三成を初めとする西軍が東軍に大敗して、一族の居城佐和山城も落城したことを知ると、大坂から津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らと共に陸奥国津軽に逃れた。 |
| 杉山吉成 | 杉山成和 |
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石田三成の次男石田重成の長男。関ヶ原の戦いで西軍が大敗すると、父の重成とともに、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。 |
天保12年(1841年)、弘前藩の重臣・杉山成範の嫡男として生まれる。元治元年(1864年)、江戸詰めの用人であったとき、禁門の変が発生し、家老代理として上京した。慶応4年(1868年)4月には家老となる。声高に佐幕を主張し、碇ヶ関を丸太で閉鎖し官軍の入国を拒むなどし、解任された。のち再び家老として箱館戦争の軍事総監となり、食禄150俵と刀料金200両を賜っている。明治2年10月に権大参事に任命された。明治10年(1877年)、西南戦争では旧藩士召募を行い、東京で隊長となった。しかし、実戦に参加することなく、後年は中津軽郡長や北津軽郡長を務めた。明治28年(1895年)、死去した。 |
| 杉山壽之進 | |
| 杉山氏は石田三成の次男の子孫。東奥義塾に入学するも中退し上京、東京大学法学部に入学する。明治30年(1868年)、東奥義塾教頭となり、同年末に塾長となった。大正2年、同校廃校までに、弘前市立図書館開設にも尽力し、同館長も務めた。同校廃校後は、各地の公立中学校に努め、大正11年同校再興の中心となった。その後は弘前和裁女学校に務めるなど、地方教育に尽力した。昭和20年(1945年)に死去した。 |