<桓武平氏>高望王系

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石田為久 石田正継
 治承・寿永の乱において鎌倉方として源義仲討伐軍に加わる。寿永3年(1184年)正月21日、義仲が粟津の戦いで敗北し、北国へ落ち延びる道中、馬が粟津の松原で深田にはまり込んで動けなくなったところを、矢を放って義仲の兜の内側を射抜いた。義仲が倒れたところを為久の郎党2人が駆けつけ、その首を取った(『平家物語』)。『吾妻鏡』にも義仲が相模国住人・石田為久により討たれたことが記されている。なお、『愚管抄』では義仲を討ち取ったのは伊勢義盛としている。 

 出自は、近江国坂田郡石田村出身の地侍、または京極氏の被官とする説があり、学問の志が深く、才文武を兼ね、学は和漢を通じ、万葉集を紐解き、和歌を詠ずる風流心があった。醒ヶ井の松尾寺から六十巻の書籍を借り読破し、三成にも読ませようとした。父は石田為広(為成,仲成,為厚とも)で、法名は前陸奥入道清心といわれるが詳細は不明。
 三成が豊臣秀吉に仕えると、天正14年(1586年)から16年(1588年)、三成が堺の奉行となったときに、その代官として三成を補佐した。
 堺の甘露山大阿弥陀経寺は、文亀2年(1502年)に八万貫屋宗徳・妙徳より塩風呂を寄進されて以来、治療に用いられて栄えていたが、天正16年、代官の正継は、この濫用を止めさせ、寺院の乱れを正し、入浴の方法や休日などを定めた。この塩風呂には秀吉も入浴して持病平癒したので、諸役免除の朱印が与えられている。
 文禄4年(1595年)、三成が佐和山城主に封ぜられると、正継も近江国内で300石を食み、常に城にあって、以後は城代として三成留守時の政令を掌った。京極家の木材伐採における諍いの沙汰、百姓の共有地の保護、神社仏閣・経典の保存に尽力した。佐和山領、江北の蔵入地の支配は三成に代わって、その任務を行った。この地方に残っている民政の古文書は三成よりも正継の名の方が多い。
 朝鮮出兵では、楠木正虎と共に肥前名護屋城にあって帳簿関係を担当した。刺髪して初め入道円斎を号し、さらに梅岩道圍居士を号した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、佐和山城の本丸を2800人で守備した。関ヶ原で西軍が敗れると東軍の1万5000人が城に押し寄せたが、小早川秀秋らの猛攻に半日抵抗して家臣の多くを脱出させた後、18日に正澄と共に自尽して果てた。墓所は京都市右京区の妙心寺塔頭壽聖院。 

石田正澄 石田三成

 石田正継の長男として誕生、羽柴秀吉が中国征伐を命じられた頃(天正5年前後)に、弟の三成と共に秀吉に仕官した。
 天正11年(1583年)、近江国高島郡での代官に任じられた。河内国の蔵入地の代官としても名前が見える。秀吉から北近江に1万5,000石の知行を与えられた。
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、近江長浜へ奉行として派遣され、鋤・鍬を尾張犬山へ輸送する町衆を監視した。天正17年(1589年)、検地奉行として美濃国の検地に携わる。
 文禄の役(1592~96年)では、いち早く九州に下向し、名護屋城に秀吉のための茶室を建設した。戦役中は物資を朝鮮半島に輸送する任務で活躍し、三成,大谷吉継,増田長盛ら奉行衆の報告を秀吉に取り次ぐ役目にもあたった。文禄2年(1593年)9月3日、従五位下・木工頭に叙位任官され、豊臣姓を下賜された。同年ないし文禄3年(1594年)に堺の代官に就任し、慶長4年(1599年)までその任にあった。文禄4年(1595年)、秀次事件の後、訴訟を受理する十人衆が新設されると名を連ねる。同じ頃の7月、河内郡に1万石を加増され、これにより併せて2万5,000石となった。 慶長の役(1597~98年)では、秀吉の奏者として伏見城に残り、木下吉隆と共に多数の書状を残している。また大村由己,藤原惺窩,猪苗代兼如,西笑承兌などの一流の知識人と交流を持ったとされる。慶長3年(1598年)の醍醐の花見では、秀吉の側室・松丸殿に随行した。
 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは三成の西軍に与し、父の正継と共に佐和山城を守備した。愛知川に関を設けて畿内西国の領主の家康方への参戦を阻止し、諸軍勢を西軍にまわらせるなどの働きをした。しかし、関ヶ原で西軍が敗れた後に、小早川秀秋らの軍に佐和山城を攻められる。正澄は大手門を守備し、幾度となく敵を退けたが最期は父や長男・朝成と共に自害した。『慶長年中卜斎記』には「石田木工(正澄)天守にて焼死」と記されている。三玄院過去帳には、同年12月2日には次男・主水正も殺されたとあり、あるいは自刃したと思われる。生前に帰依していた春屋宗園により、石田正澄と三成の位牌と供養塔が大徳寺の三玄院に建立されている。 

 永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で誕生。幼名は佐吉。羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継,兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。
 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。
 天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(異説あり)。堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。天正15年(1587年)、秀吉が九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせることができたのは、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興にも従事した。
 文禄元年(1592年)からの文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓,徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則,黒田長政ら武断派の反発を招いた。
 文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられた。
 慶長元年(1596年)、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという。
 慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。この頃から三成と加藤清正,黒田長政,蜂須賀家政らとの対立が顕著になっていく。
 秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだが、大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしている。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻に対し、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣し、利家・家康らと誓紙を交わして和睦したが、閏3月3日に大老・前田利家が病死すると、その直後に三成と対立関係にあった武断派の加藤清正,福島正則,黒田長政ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後、七将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。
 慶長5年(1600年)7月、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴く。三成は、これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意する。8月1日、伏見城を陥落させ、8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
 しかし、9月15日、東軍と西軍による天下分け目の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍優勢であったが、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
 一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長,安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、京都所司代・奥平信昌の監視下に置かれた後、10月1日に家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園,沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。 

石田辰子 石田重家

 石田三成の3女として誕生した。慶長3年(1598年)頃、豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父・三成が徳川家康に敗れる。その直後に豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって兄・重成とともに津軽へ逃されたとも、高台院の保護下にあり、高台院の側近・孝蔵主に従って江戸に下り縁組を整えたともいわれる(孝蔵主は辰姫の姉である岡重政室を通じて石田家と縁戚関係にある)。
 慶長15年(1610年)頃、津軽信枚に嫁ぐ。2人の仲は良好であったとみられるが、慶長18年(1613年)に家康は養女・満天姫(松平康元の娘)を信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる。辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された。その後も信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)1月1日、信枚の長男・平蔵(のちの信義)が誕生する。津軽信義の乳母は、のちに船橋騒動の火種となる旧宇喜多家家臣・船橋半左衛門の妻である。
 元和9年(1623年)、大舘で死去した。享年32。墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺。幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、信枚の熱意により嗣子と認められ、信枚の死後に藩主を継いだ。

 天正11年(1583年)または天正15年(1587年)、石田三成の嫡男として誕生したとされる。
 慶長5年(1600年)、重家は大谷吉継から上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように勧められるが、関ヶ原の戦いが勃発したため、豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれた。しかし、関ヶ原における西軍大敗の知らせが届くと、9月19日夜、乳母やその父・津山甚内らによって密かに脱出を促され、京都妙心寺の塔頭寿聖院に入って、住職の伯蒲慧稜(伯蒲恵稜とも)によって剃髪して仏門に入れられた。伯蒲は法号として宗享の名を彼に与える。済院は字。
 伯蒲は、京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康は本多正信と協議して、重家がまだ十代前半と若かったことからこれを許した。元和9年(1623年)、宗享は仏戒を修めて、雲屋祖泰(雲屋宗春)より寿聖院を三世として受け継ぐが、そもそも寿聖院は三成が実父・正継のために伯蒲を招いて開基した寺である。
 また、後に春日局の側近として大奥で仕えることになる祖心尼に禅を教授したとも言われている。
 貞享3年(1686年)閏3月8日に死去。享年104ともいうが、生年には前述の他にも異説が多くあり、正確な年齢はよくわからない。
 異説としては、大坂城より脱して高野山に奔ったというものがいくつかあり、『豊内記』では高野山に逃れた後に殺されたとしている。また別に晩年の重家は仏門から還俗して和泉国岸和田藩の藩主・岡部宣勝の庇護を受けながら、岸和田で死去したという説もある。 

石田佐吉 杉山重成
 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り、小早川秀秋,田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

 石田三成の次男として誕生。慶長4年(1599年)より豊臣秀頼に小姓として仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父・三成を初めとする西軍が東軍に大敗して、一族の居城佐和山城も落城したことを知ると、大坂から津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らと共に陸奥国津軽に逃れた。
 その後は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(現・板柳町)に隠棲する。または杉山八兵衛と名を変えて津軽家に家人として仕えて侍大将になったとも言う。
 慶長15年(1610年)4月28日に若死したという説があるが、慶長15年頃まで隠棲し、その後出府して寛永18年(1641年)に53歳で死去したという説も有力である。3男の成保系『杉山系図』には、藤堂高虎に仕え伊勢で死去したという記述があるが真偽は不明。
 石田三成が豊臣を名乗ることを許されていたという記録は無いが、宗徳寺(青森県弘前市)にある重成以下杉山家の代々の墓には豊臣の姓が刻まれている(江戸時代に豊臣氏を正式に名乗っていたのは北政所の実家・木下家のみ)。 

杉山吉成 杉山成和

 石田三成の次男石田重成の長男。関ヶ原の戦いで西軍が大敗すると、父の重成とともに、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。
 同地で吉成は、信建の弟である津軽信枚(弘前藩主)の娘を妻とし、累進して寛永21年(1644年)には1,300石知行、御証人役加判となる。
 寛文9年(1669年)、蝦夷地で起こったシャクシャインの戦いで、幕府からの要請を受け、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海し、のちに幕府から褒賞を授与された。子孫は、弘前藩重臣として存続した。 

 天保12年(1841年)、弘前藩の重臣・杉山成範の嫡男として生まれる。元治元年(1864年)、江戸詰めの用人であったとき、禁門の変が発生し、家老代理として上京した。慶応4年(1868年)4月には家老となる。声高に佐幕を主張し、碇ヶ関を丸太で閉鎖し官軍の入国を拒むなどし、解任された。のち再び家老として箱館戦争の軍事総監となり、食禄150俵と刀料金200両を賜っている。明治2年10月に権大参事に任命された。明治10年(1877年)、西南戦争では旧藩士召募を行い、東京で隊長となった。しかし、実戦に参加することなく、後年は中津軽郡長や北津軽郡長を務めた。明治28年(1895年)、死去した。 
杉山壽之進
 杉山氏は石田三成の次男の子孫。東奥義塾に入学するも中退し上京、東京大学法学部に入学する。明治30年(1868年)、東奥義塾教頭となり、同年末に塾長となった。大正2年、同校廃校までに、弘前市立図書館開設にも尽力し、同館長も務めた。同校廃校後は、各地の公立中学校に努め、大正11年同校再興の中心となった。その後は弘前和裁女学校に務めるなど、地方教育に尽力した。昭和20年(1945年)に死去した。