<藤原氏>北家 秀郷流

FU30:下河辺行義  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 藤原兼光 ― 下河辺行義 ― 長谷川政宣 FU31:長谷川政宣


リンク
長谷川正長 長谷川宣雄

 今川義元に仕え、桶狭間の戦いで義元と父・元長が戦死すると、今川氏真に仕えたが、 永禄13年(1570年)に甲斐の武田信玄に駿河を攻められると遠江に逃れ、三河から進出してきた徳川家康に仕えるようになった。元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いに参加、徳川軍が大敗すると父同様、奮戦して討死にした。享年37。墓所は焼津市の信香院。
次男の伊兵衛宣次は天正10年(1582年)から家康の小姓を務めると、やがて別家を興したという。その子孫に火付盗賊改方の長谷川宣以がいる。

 江戸時代中期の旗本。火付盗賊改方頭として知られる長谷川宣以の父で、自身も同職を務めた。通称は平蔵、息子も同じ平蔵を名乗る。
 従兄・長谷川宣尹の末期養子となり、延享5年(1748年)1月10日に宣尹が死去したため、同年4月3日に遺跡を継いだ。改元後の寛延元年(1748年)閏10月9日に西城御書院番、宝暦8年(1758年)9月15日に小十人頭となった。同年12月18日、布衣の着用を許された。明和2年(1765年)4月11日に御先手弓頭、明和8年(1771年)10月17日に火付盗賊改加役に就任した。
 明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火では、犯人の真秀を捕らえ、火刑に処した。この功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に京都西町奉行に転任、同年11月15日に従五位下・備中守に叙任される。安永2年(1773年)6月22日、奉行在任中に京都で死去した。享年55。

長谷川宣以

 延享2年(1745年)、400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれる。明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見えし、長谷川家の家督相続人となる。池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られる。
 青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。父の宣雄が安永元年(1772年)10月に京都西町奉行の役に付き、宣以も妻子と共に京都に赴くが、翌安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語して江戸に戻り、同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配・長田備中守の配下となった。
 父がためた金も使い果たし、遊郭へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられる宣以であるが、安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに順調に出世し、火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時である。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。このような手法はかつての田沼意次を彷彿とさせ、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。
 寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。また、寛政3年5月3日(1791年6月4日)には、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、斬首した。逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。
 非常に有能だが幕閣や同僚からはあまり信頼されていなかったようで出世はままならなかったが、的確で人情味溢れる仕事振りに庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。宣以も出世できないことを愚痴っていることもあったが「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。
 寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヶ月後に死去した。死の直前、11代将軍・家斉から懇ろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」を下賜されている。東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。長谷川家の家督は嫡子・長谷川宣義が継いだ。なお、長谷川宣以の住居跡には数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。