<藤原氏>北家 秀郷流

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小山政光 小山朝政

太田政光は久安6年(1150年)頃、下野国に移住して小山荘に住し、小山氏の祖となる。後妻で3男・朝光の母である寒河尼は源頼朝の乳母。下野国の国府周辺に広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていた。
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵の際、政光と嫡子・朝政は大番役として在京していたが、頼朝の乳母であった後妻の寒河尼が元服前の朝光を伴って10月に房総で再起した頼朝の宿所を訪ねている。夫の不在中は妻が権限を持つのが慣習であり、これによって在地にあった小山氏の武士団は頼朝方に立つことになる。以降、息子達と共に頼朝の御家人となる。
文治5年(1189年)7月の奥州合戦で奥州へ向かう道中、下野の宿舎で政光が頼朝の接待をしていた時、頼朝の前に熊谷直実の子・直家が祗候していた。政光が何者か訪ねると、頼朝は「この者は本朝無双の勇士の熊谷小次郎直家である」と紹介した。政光がなぜ無双と称するのか問うと、「一ノ谷の戦いをはじめとする平氏追討の戦場で父と共に度々命がけで戦ったからである」と褒めると、政光は大いに笑って「君(頼朝)のために命を捨てるのは、直家に限ったことではありません。ただし、このような者はろくに郎党を持てないために自分で勲功をあげ、高名手柄にするしかないのでしょう。政光のごときは、だた郎党を派遣して忠を尽くすだけです。皆の者、今度の戦では先頭に進んで自分自身で手柄を立てて、本朝無双の勇士と褒めていただこうではないか。」と息子たちに命じた。これは家人の高名がそのまま自己の戦功となる大領主の「大名」武士と、自身で戦功を立てるしかない「小名」武士の違いを示す例として知られる。
没年は不明だが、正治元年(1199年)以前に死去している。

治承4年(1180年)、源頼朝は平氏打倒の兵を挙げ、9月3日、朝政はそれへの参向を求める書状を送られる。10月2日、寒河尼は実子の朝光を伴って頼朝の下に参じ、朝政もその後の早い時期に従ったと考えられている。
寿永2年(1183年)2月、頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平氏のため駿河国に在った。2月20日、常陸国志田に住む志田義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、三万余騎を率い下野国へと到る。頼朝は下野に在った朝政にその対応を託し、それを助けるため弟の宗政らは鎌倉を発する。2月23日、義広は鎌倉へ向けて軍を発し、それに加わるよう朝政を誘う。朝政加勢すると偽りの答えを返し、朝政と宗政は野木宮にて義広を攻め破った(野木宮合戦)。2月28日、使者を発し頼朝に戦勝を告げる。頼朝は義広に与した常陸国,下野国,上野国の武士を所領を収公し、朝政らは恩賞を得た。
元暦元年(1184年)8月8日、源範頼は平氏追討のために京へ向い、9月2日、朝政はそれに属せよとの命を受け鎌倉を発する。その際に朝政は兵衛尉を望み、京でその任官を受けた。
元暦2年(1185年)1月26日、範頼らと共に周防国から船で豊後国に渡る。3月11日、兵糧の不足に苦しむ範頼の軍の中で、他の御家人らと共に頼朝より慇懃の書を受ける。3月24日、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅びた。4月15日、頼朝は内挙を得ず任官を受けた御家人らの帰国を禁じる書状を発し、朝政もそれに入れられ、書状には「鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬の道草を喰らうが如し」と書かれた。しかし、10月24日には朝政は許されており、鎌倉で行われた源義朝の法要に参列する。この法要は鎌倉の頼朝と京の源義経が対立する中で、三千人弱の主要な御家人を集めて営まれた。法要が終わると頼朝は明日上洛との意を述べ御家人を集める。その中でも明暁に進発する者を募り、朝政はそれに応えた58人中の筆頭であった。11月1日、頼朝の軍は駿河国黄瀬川に達し、義経は戦わずして京を落ちた。以降、朝政は鎌倉で行われる儀式に多く名を連ねることとなる。
文治5年(1189年)7月19日、頼朝は藤原泰衡を討つために鎌倉を発し、朝政はそれに従う。7月25日、下野国古多橋駅において願を立て宇都宮社を奉幣した折、その宿所にて父の政光が頼朝に食事を献じた。8月10日、阿津賀志山の戦いに加わり、守る藤原国衡を破る。8月14日、玉造郡物見岡に泰衡を追い岡を囲む。泰衡は既に逃亡しており、岡には50人弱の郎従が残っていた。それらは朝政らの武勇により、討たれまたは捕らえられる。9月、合戦は泰衡が自らの郎党に討たれ、頼朝らの勝利に終わった。
建久元年(1190年)、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられる。建久3年(1192年)9月12日、野木宮合戦の功により常陸国村田下庄の地頭に補任される。この時、左衛門尉に転じている。
建久5年(1194年)10月9日、頼朝が朝政の家を訪問する。朝政の兄弟以下の一族や弓馬に堪能な御家人を集めて古い記録や先例を調べながら流鏑馬の作法について語らせ、それを中原仲業に記録させる。
正治元年(1199年)10月28日、梶原景時を訴える連署状に名を連ねる。12月19日、播磨守護に補される。
建仁元年(1201年)2月3日、大番役で在京しており、関東追討の勅許を求める城長茂に三条東洞院の宿舎を襲われる。朝政は行幸に随行し不在で、残っていた郎従らが応戦し、長茂は兵を引いた。戻った朝政は長茂が在るという清水坂に向うが行方は知れず、長茂は後に吉野で討たれ首を晒された(建仁の乱)。
 元久2年(1205年)8月7日、幕府から義理の兄弟である宇都宮頼綱の謀反が疑われ、北条政子邸における評議の席で大江広元は朝政が頼綱を追討すべきと主張するが、朝政は反逆には賛同しないが防戦の際には全力を尽くすと述べ、追討を辞する。11日、頼綱と朝政は書状を北条義時に届け、謀計は無き旨を述べるが許されず、この結果、頼綱は遁俗する。
承久3年(1221年)、承久の乱では宿老として上洛せず関東に在った。貞応2年(1223年)10月25日、検非違使を兼ねている。
嘉禎4年(1238年)3月30日、84歳で卒する。病を患うと幾日も経なかった。墓所は埼玉県加須市大越の徳性寺。

小山朝長 小山長村

 下野国守護で小山城城主。文治4年(1188年)、小山朝政の嫡子として生まれる。通称は又四郎。官職は左衛門尉。初名は政義。
 建久4年(1193年)8月の鶴岡で奉納された流鏑馬の射手として史料に現れる。承久元年(1219年)1月、将軍・源実朝が殺され、同3年(1221年)5月の承久の乱)では、武田信光,小笠原長清,および叔父・結城朝光とともに東山道大将軍の一人として従軍した。6月5日、東山道軍は大井戸の渡しで京方を破り、東海道軍と合流し、6月15日入京した。
 乱後、幕府は、京方の公卿の中心人物を有力御家人に預け、鎌倉に護送させている。7月、朝長は、命によって葉室宗行を駿河国藍沢原で斬首した。乱平定の恩賞として、尾張国海東荘を与えられたと推測される。また、父から家督や所領を譲られている。
 寛喜元年(1229年)11月17日、父に先立ち42歳で死去した。同2年(1230年)2月20日、父・朝政は、朝長の子・長村に所領と所職を譲渡した。

 『吾妻鏡』での初出は安貞2年(1228年)5月10日条で流鏑馬の射手を務めた記録で、弓矢に優れており、鶴岡馬場の儀式での射手も務めている。建長から弘長年間には、将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣の供奉人を頻繁に務めている記録が見られる。
 建長2年(1250年)3月28日、祖父・下野入道生西(小山朝政)の十三年忌供養を行う。同年12月28日、伊勢の守藤成以来、長村まで16代相伝した下野国大介職が大神宮雑掌の訴えによって改補されたが、長村の愁訴により、評議によって返却されるべきとされた。