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北面武士・西面武士として院に仕える畿内近国の武士の一族で、下野守,河内守,備前守,能登守など国司を歴任し、富裕ならびなき者とされた。後鳥羽上皇の討幕計画に参与し、有力御家人の三浦義村の弟・三浦胤義を説得して味方に引き入れた。 承久3年(1221年)の承久の乱では挙兵の際に京都守護・伊賀光季を攻め殺す。秀康の所従の押松に有力御家人へ宛てた義時討伐の院宣を持たせ使者として鎌倉へ送るが、押松は幕府方に捕らえられてしまう。 『吾妻鏡』によれば、北条政子が御家人を説得するために鎌倉で行った演説で、秀康は胤義とともに上皇に讒言した逆臣として名を挙げられており、幕府からは京方の中心人物と目されていたことがうかがえる。 京方の大将軍として弟の秀澄とともに美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて、乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出した。秀康は奈良に潜伏するが、10月に河内国で捕らえられ、秀澄とともに京で斬られた。 優れた歌人であった弟の秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。
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承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍。院に仕える畿内近国の武士で北面武士・西面武士,帯刀,左衛門尉,右衛門尉,河内判官を歴任。兄の秀康は後鳥羽上皇の討幕計画の首謀者のひとりであった。 承久3年(1221年)5月に後鳥羽上皇は討幕の挙兵をした。6月に京方は幕府軍を迎え撃つべく美濃国と尾張国の国境の尾張川に布陣。秀澄は大将軍として出陣して墨俣に陣をしいた。京方は少ない兵力を分散させる愚策を犯しており、尾張の住人・山田重忠は兵力を集中し機制を制して尾張国府を襲う積極策を進言。怯えた秀澄はこれを取り上げず、結局、京方は大敗を喫し、秀澄は京へ逃げ帰った。『承久記』は秀澄を「天性臆病武者なり」「心のたるんだ武者」と酷評している。 京方は宇治・勢多の戦いでも敗れ、幕府軍は京に乱入。後鳥羽上皇は秀康,三浦胤義らを乱を引き起こした謀臣として逮捕を命じる院宣を出し、京方武士を見捨てた。秀澄は奈良に潜伏するが、河内国で捕らえられ、京で斬られた。
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