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天正3年(1575年)の長篠の戦い前夜、鳶ヶ巣山砦で酒井忠次率いる織田・徳川軍による夜襲で討死した名和無理助である。『甫庵信長記』等によれば、小栗忠政,渡辺守綱に討たれたとされ、『長篠合戦図屏風』にもこの場面が描かれている。織田方の首帳に名が記されていることから、当時から広く知られた人物であったと思われる。 名和無理助の基本史料となる『甲陽軍鑑』では出自について「関東」と記されているだけで、具体的な出自が記されるのは近世以降の文献に限定される上、複数の説がある。那波宗俊の長男(那波顕宗の兄)、那波顕宗の子、那波広澄(または広隆)の弟など。ただし、これらは甲州流軍学と『甲陽軍鑑』が普及した近世以降に付会された伝承で、実際は那波氏傍流の出身であった可能性も指摘されている。 理由は定かではないが、上野国を出奔し武田氏に仕えた。上野国箕輪城を拠点に武田信玄に抵抗していた長野業政が病死して息子の業盛が後を継ぐと、信玄は西上野諸城を攻略や調略で落とし、ついに箕輪城に攻め込んだ。無理助はこのとき武田方として箕輪支城の高浜砦,白岩砦を攻略したとされる。ただし、無理助が箕輪城攻めに加わっていたという記述は、『箕輪軍記』『長野記』など長野氏側の軍記のみに記されている。 永禄12年(1569年)以降は、武田氏「牢人衆」として『甲陽軍鑑』に登場するようになる。永禄12年(1569年)、武田信玄が北条領に進攻した際、相模川を渡河する陣ぶれを決めた場面で、「牢人衆」の一人として登場する。元亀元年(1570年)、今川旧臣の守る駿河国花沢城を攻めた際、敵からの矢玉の激しさに攻撃をためらっていると、同僚から無理押しできない「道理のすけ」と渾名される。 天正2年(1574年)、信玄の跡を継いだ武田勝頼は織田領の東美濃に侵攻したが、飯羽間城を攻めあぐねていた。撤退を進言する家老達に対して、無理助をはじめとする牢人衆たちが代替わりの奉公として城を攻め取らせて欲しいと願い出る。一方、近習衆は牢人衆の意見を採用することは武田家の恥となるので、自分達こそが城を攻め落とすべき主張した。結局は飯羽間城を包囲していた先鋒勢が、牢人衆や近習衆に手柄を横取りされると焦って城を攻め落とした。
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永禄3年(1560年)に父・宗俊が上杉謙信に居城の赤石城を落とされて降伏した際に人質として厩橋城に送られる。北条方とされた宗俊は所領を奪われて程なく没した。那波氏の所領は上杉氏に味方した由良氏(横瀬氏)に与えられていたが、天正2年(1574年)に由良氏の後北条氏への離反に直面した上杉氏は那波氏の旧領復帰を図る。だが、赤石城は由良氏の支配下にあったため、近くの今村城を取り立てて顕宗をそこに入れたという。 だが、上杉謙信の没後に始まった御館の乱で義父で厩橋城主である北条高広とともに上杉景虎を支援するが敗北、以後、武田氏,滝川一益(織田氏)に従う。だが、本能寺の変後は上杉氏に復帰した義父と袂を分かって後北条氏に従い、天正11年(1583年)8月には北条高広の侵攻を受けて撃退している。 だが、天正18年(1590年)の小田原の役で後北条氏について敗れて再び所領を失い、上杉景勝を頼る。だが、同年10月に上杉軍の一員として仙北一揆の鎮圧中に戦死する。安田能元の養嗣子になった次男・俊広以外の子には先立たれたのか、以後の那波氏の活動はみられず、顕宗の代で断絶したと見られている。
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