<藤原氏>北家 秀郷流

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佐藤義清(西行) 斎藤清信

 16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)、23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称した。
 出家後は心のおもむくまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)頃に奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)に前後に高野山に入る。
 仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき讃岐国の善通寺でしばらく庵を結んだという。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていた。
後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。
 伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。 

 初代美濃国鉈尾山城主。出自については文献がなく全く不明であるが、諱は清泰寺(岐阜県美濃市)の過去帳,佐藤家系図には清信とあり、末裔の佐藤一斎も清泰寺墓の詩に八世の祖・清信と記しているが、清泰寺所蔵の『歴世因由録』には秀信とあり、『濃飛両国通史』には、関係事項によって清信,秀信,方信と異なる記載がある。
 『美濃明細記』にて考察すると、佐藤氏は一族として美濃国の守護代・斎藤氏に仕え、上有知の支配者・浅野氏が領地を返上した永正年間以降にその地を与えられて、天文年間(1532~55年)に鉈尾山城を築いた。永禄6年(1563年)には保寧寺(後の清泰寺)を建立し、上有知八幡神社も建立したと伝わる。同年に死去したとされるが、常在寺記録によれば、元亀元年7月27日(1570年8月28日)没ともいう。墓所は清泰寺。 

斎藤秀方 斎藤方政

 元亀元年(1570年)7月に父の清信が没すると家督を継ぎ、居城のある上有知他5,000貫の知行地を有した。
 織田信長が美濃国を制圧すると、服属して各地を転戦。永禄12年(1569年)の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いと比叡山包囲、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに参陣。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、徳川家康配下の酒井忠次につけられて、鳶巣山城を攻撃した。その後、織田信忠付となり、東美濃衆の一員として、天正6年(1578年)には、越中戦線に派遣された(月岡野の戦い)。
 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、日根野弘就,金森長近と去就を相談し、家康に款を通じたと見られ、家康より近況を伝える書状を受けている。その後、織田信孝と羽柴秀吉の対立が深まると秀吉に与し、天正11年(1583年)には森長可と連合して、信孝に付き立花山に籠もった遠藤慶隆を降し(立花山の戦い)、秀吉の幕下に入って鉈尾山城を安堵され、武儀郡の大半2万5000石を領有することとなった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、羽柴方として内窪山砦を守備した。
 天正13年(1585年)、紀伊根来攻め(千石堀城の戦い)に参加。同年、秀吉の命による金森長近の三木自綱攻めを支援。自綱を降した後、秀吉は長近に飛騨国を与えようとするが、長近が居城の越前大野城を出るのに難色を示したため、秀方が萩原諏訪城にあって一時預かることになった(長近は翌年に了承)。こうしたことから長近との連携が深まり、長近の姉を妻として両者は姻戚関係となった。 天正18年(1590年)の小田原征伐では、馬廻組頭として600人を率いて参加(ただし、次男の方政が父の代理で出陣したともされ、それは当時、秀方がすでに隠居しており、兄・清重が病弱だったためと考えられる)。文禄の役にも従軍した。
 文禄2年(1593年)に隠居するが、当時、上有知・関に1万8000石と河内金田の2万石を領していたという。隠居所は以安寺山麓であった。文禄3年7月20日(1594年9月4日)、死去。 

 美濃国鉈尾山城主。文禄3年(1594年)、父・秀方の死により領地を継ぐが、代々の名乗りである六左衛門は兄の清重が継いでいる。しかし、小田原征伐へは方政が父の代理で出陣したともされる。
 慶長3年(1598年)の豊臣秀吉死後は、岐阜城主・織田秀信の帷幕にあった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては西軍に属し、手兵を率いて岐阜城に入城して、戌亥出丸持口を守備した。東軍が迫ると、木曽川で阻止するため秀信自らが出陣。方政は木造具正,百々綱家と共にこれに従軍し、新加納に布陣するが、8月22日の米野の戦いで、福島正則,池田輝政率いる大軍に破れた。岐阜城の戦いでは名前が見られないことから、そのまま戦線を離脱して敗走したと見られる(母の実家の金森家に居候したともいわれる)。戦後に領地と居城は没収され、方政の母の弟でもある飛騨一国の太守・金森長近への加増として与えられた。
 その後は流浪し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に加わって参戦。籠城の末、夏の陣の5月7日に戦死した(ただし、方政が、同じく大坂城に入城した佐藤春信と記録が混同していて、入城していないという説もある)。
 佐藤系図によれば、兄・清重は鉈尾山城滅亡後は養老郡上石津村乙坂に蟄居し、乙坂佐藤家の祖となった。方政の嫡男・八兵衛は、大坂の陣の後に京都所司代の板倉勝重に許され西国大名に仕官したが、程なく病死した。次男の佐太郎は出家し、尾張国熱田の円通寺の住持・弧舟となったが、仔細あって遠島になったという]。子孫は、岩村藩に仕えた。儒学者の佐藤一斎も子孫という。

佐藤一斎 比企局

 明和9年10月20日(1772年11月14日)に佐藤信由の次男として、江戸浜町の岩村藩邸下屋敷内で生まれた。生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ、代々藩の家老を務める家柄だった。一斎も寛政2年(1790年)より岩村藩に仕え、藩主松平乗薀の3男・乗衡の近侍となるが、翌年に免職となる。その後は大坂に遊学し、皆川淇園,中井竹山に学んだ。
 寛政5年(1793年)、江戸に戻って林簡順の門下となる。間もなく簡順が没し、乗衡が公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗ると、一斎は述斎の門人として留まった。文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。
 儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、官学の総帥として重きをなした。朱子学を専門としつつも、中井竹山の指導によって陽明学も修め、学問仲間から尊敬をこめて「陽朱陰王」と呼ばれた。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷,佐久間象山,渡辺崋山,横井小楠,若山勿堂,池田草庵,東沢瀉,吉村秋陽,安積艮斎,中村正直,林靏梁など、いずれも幕末に活躍した英才が多数いる。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。
 また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に陥った渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々「言行不一致」と批判されることとなった。
 安政元年(1854年)の日米和親条約の締結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の6男)を補佐している。吉田松陰は玉木文之進への手紙の中で「林家、佐藤一斎等は、至って兵事をいふ事を忌み、殊に西洋辺の事共申候得ば、老仏の害よりも甚しとやら申される由」と書いて、西洋嫌いに失望している。
 安政6年9月24日(1859年10月19日)、88歳で死去した。墓地は、東京都港区六本木7丁目の深廣寺にあるが、非公開である。

 実名や父母・生没年は不明。娘に丹後内侍,河越尼,3女(実名通称不詳)、猶子は比企能員。
 平治元年(1159年)の平治の乱によって源義朝が敗死し、嫡男・頼朝は14歳で伊豆国に流罪となる。頼朝の乳母であった比企尼は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允と共に京から領地へ下り、治承4年(1180年)の秋までの20年間にわたり頼朝に仕送りを続けた。
 娘が3人おり、源範頼の系譜である『吉見系図』によると、嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて島津忠久を産んだとされ、その後に関東へ下って安達盛長に再嫁し、盛長は頼朝の側近となる。次女の河越尼は武蔵国の有力豪族・河越重頼の室となった。3女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清に嫁ぎ、死別したのち源氏門葉である平賀義信の室となっている。
 比企尼は比企郡から頼朝に米を送り続け、3人の娘婿(盛長・重頼・祐清)に頼朝への奉仕を命じていたという。長女と次女の娘はそれぞれ頼朝の異母弟・源範頼,源義経に嫁いでいる。
 比企尼は男子に恵まれなかったため、比企氏の家督は甥の比企能員を尼の猶子として跡を継がせている。後に能員が頼朝の嫡男・頼家の乳母父となって権勢を握ったのは、この尼の存在におけるところが大きかった。なお、尼の次女と3女も頼家の乳母となっている。夫の掃部允は頼朝の旗揚げ前に死去している。
 文治2年(1186年)6月16日と文治3年(1187年)9月9日、頼朝と北条政子の夫妻が尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催している。その後の尼の動向や死没年は不明だが、『吉見系図』では孫娘の婿である源範頼が謀反の咎で誅殺された際、頼朝に曾孫の助命嘆願を行い、範頼の男子2人が出家することで連座を逃れたとしている。 

佐藤忠能 佐藤忠康

 美濃斎藤氏に仕え、斎藤道三方として土岐頼芸の追放に加わるが、弘治2年(1556年)の道三に子の斎藤義龍が反乱した長良川の戦いでは義龍方として従軍した。その戦功により感状をもらい、西田原(400貫)・神野(300貫)の他、加茂郡・武儀郡で4,389貫の所領を得た。
 斎藤龍興の代になると、尾張国の織田信長の侵攻に備えるため、関城主・長井道利,堂洞城主・岸信周の三者で盟約を結ぶ。しかし、忠能父子は家臣の梅村良澤を遣わして、信長に内通。信長から武儀郡・加茂郡・郡上郡の反銭を押さえ、その土地を手に入れ次第知行してよいという褒賞を得た。
 その後、西美濃三人衆が信長に寝返るという風聞が伝わると、岸らに去就を問われ、信長への内通を悟られぬために娘(八重緑)を信周の子・信友に嫁がせるが、永禄8年(1565年)8月、密約通り織田側に与したことで娘は磔にされた。
 長井道利は肥田忠政共に織田方に寝返った加治田城を奪取しようと、加治田から25町先の堂洞城の岸信周と共に出陣。自らは関城で後詰をした。これに対し、8月28日、織田軍も堂洞城に攻撃を開始。忠能父子は織田軍側で堂洞城攻撃に加わり、6時間の攻防の末、堂洞城は陥落(堂洞合戦)。その日、信長は忠康の在所に宿泊し、忠能父子は感涙を流したという。
 堂洞城落城後、長井道利が東から、肥田忠政が西から東西より加治田城へ攻め寄せてきた(関・加治田合戦)。加治田絹丸捨堀において激しい攻防戦となるが、織田方の斎藤利治の援軍も得て、加治田勢は奮闘し長井勢を追い払った。東北では、佐藤忠能が自ら川浦川天然の堀で肥田忠政と激戦を行い、忠能自ら5度合戦に挑み、忠政を撃退した。なお、この戦いで子の忠康は討ち死にしたとされる。
 永禄10年(1567年)、信長の命で斎藤利治を養子として加治田城を任せ、自らは隣村の伊深村に隠居し、加治田に菩提寺の龍福寺を建立した。同寺には忠能が花押署名した文書6点が遺されている。
 なお、この忠能から利治への家督相続については、『三十一祖御修行記』の記述によると、永禄8年(1565年)から同10年(1567年)の間に忠康と弟・昌信の間で争いが置き、昌信が忠康を殺して加治田城を奪ったが、稲葉山城攻撃の直前だったため、信長の勘気に触れて忠能は引退し、昌信は武儀八幡に移封またはお預けとなって、子孫はこの不名誉を忠康が戦死したことにして隠蔽したという説がある。
 天正6年3月29日(1578年5月5日)に病死。龍福寺に埋葬された。

 父・忠能は美濃斎藤氏に仕え、尾張の織田信長の侵攻に備えるため、関城主・長井道利や堂洞城主・岸信周とともに盟約を結び、その際に妹の八重緑は信周へ養女(人質)として出された。しかし、忠能が信長に内通したため、八重緑は加治田城に面した長尾丸山で磔にされた。
 その翌日の永禄8年8月28日(1565年9月22日)に行われた堂洞合戦では、父・忠能とともに忠康は堂洞城を北側から攻め、織田軍が南と西から攻めた結果、堂洞城は落城。その夜に信長は忠能の屋敷に一泊し、忠能・忠康父子は感激して喜んだという。翌29日、信長の引き揚げた加治田城へ長井道利が攻め寄せ、関・加治田合戦が行われた。加治田城西大手口絹丸は、忠康と織田方からの援軍として斎藤利治が守備した。そこで激戦となる中、忠康は騎乗し縦横に駆け回って指揮をとったが、敵の矢を受け落馬して討死した。 道利を撃退した後、利治は関城を攻め、道利を城から退去させた。忠康の死去により、忠能の跡目は信長の命令によって利治に継がれることとなった。
 また、忠康を弘治元年(1556年)12月の時点で斎藤義龍に加勢して戦功をあげた桑原右近衛門尉で、忠能の養子になったと見る説もある。 

佐藤八重緑 斎藤利治

 尾張国の織田信長による美濃国への侵攻に対抗するため、関城の長井道利,堂洞城の岸信周,加治田城の佐藤忠能が盟約を結んだ際、結束を固めるため、道利の勧めで岸方の養女(人質)として差し出された。
 しかし、忠能は加治田城下の住人・梅村良澤を犬山へ派遣し、丹羽長秀を通して信長に内通。これにより合戦前の夜に八重緑は竹槍で刺殺され、加治田城や加治田城下町から見える場所にて磔となる。亡骸は、その夜において佐藤の古参である家臣・西村治郎兵衛が忍んで奪い取り、龍福寺へ葬ったと伝えられている。
 八重緑が磔にされた堂洞城長尾丸は、富加町役場東児童館(旧わかくさ保育園)の真南の長尾丸と呼ばれる出丸であり、現在もそのままの状態で保存されている。

 天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。長良川の戦い後、織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は利治と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した。
 永禄8年(1565年)8月、佐藤忠能らと共に岸信周の堂洞城、同年9月には、長井道利の関城をそれぞれ攻め落とす(堂洞合戦、関・加治田合戦)。堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたため忠能の養子となり、永禄10年(1567年)に忠能が隠居すると加治田城主となる。この間の永禄8年(1565年)11月1日付で、信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている。兄の斎藤利堯を加治田城留守居とした。
 永禄11年(1568年)、近江国の六角義賢攻めに参陣する。その後も永禄12年(1569年)の伊勢国大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の近江国小谷城攻め、同年6月の姉川の戦いにも従軍する。石山合戦、朝倉討伐、小谷城攻めにも従軍。
 天正2年(1574年)、伊勢長島一向一揆攻めに参戦し鎮圧する。
 天正4年(1576年)、織田信忠が信長から織田家の家督と美濃国・尾張国を譲られ、岐阜城主となり、濃姫の養子となった前後から信忠付きの側近(重臣)となる。天正5年(1577年)、柴田勝家の北国攻めに滝川一益,羽柴秀吉,丹羽長秀などと共に従う(手取川の戦い)。天正6年(1578年)10月、神保長住への援軍として越中国へ派遣され、太田本郷城に入り、月岡野の戦いで河田長親率いる上杉軍を撃破し、信長・信忠より感状を与えられた。 この時期に摂津国で、織田信忠隊の加茂砦が荒木村重に夜襲にあった経緯もあり、信長は利治に越中国を速やかに撤退し、本国に戻るよう指示し、利治は直ちに撤収した。有岡城の戦いでは、一手を率いて勇戦した。
 その後しばらくは動きが明らかでなく、信忠軍団にありながら、甲州征伐にも参加した様子がない。
 天正10年(1582年)6月1日、利治は信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助けるため、京都二条妙覚寺へ信忠と宿をとり、信長は本能寺を宿とした。京都所司代の村井貞勝は本能寺向かいの自邸で宿をとった。
 6月2日払暁、明智光秀の謀反(本能寺の変)を知り、父・信長のいる本能寺へ救援に向かおうとする信忠に対し、利治ら側近は既に事態は決したから逃亡するように諭すが、信忠は明智軍による包囲検問を考慮し、貞勝の二条新御所へ移るべきとの提言により、逃亡を諦めて守りに向かない妙覚寺から二条新御所へ移り、誠仁親王を脱出させ、わずかな軍勢ながら防戦し明智勢を3度も撃退する。その間に、京都に別泊していた信長・信忠軍や馬廻りの者が徐々に駆けつけると、明智軍は近衛前久邸の屋根から二条新御所を弓矢・鉄砲で狙い打ったため、最期を悟った信忠は自刃。その後、利治は火を放ち敵兵をよく防いだが、最後は同じ美濃斎藤氏一族の斎藤利三に攻められ、討死した。
 子に義興(新五郎)と市郎左衛門がいたが、しばらくして加治田城を預かっていた伯父の斎藤利堯が死去し、後継の立たないまま家臣が金山城の森長可に従ってしまい、2人は利治の家老・長沼三徳によって絹丸捨堀において養育された。後に三徳が織田秀信に紹介し2人は召し抱えられ、岐阜城の戦いでは池田輝政の家臣と交戦した。その後、義興は輝政に召し出され、市郎左衛門は越前松平家の松平直基へ仕官し、知行を与えられたともいう。娘の蓮与は浅井長政家臣・速水時久に嫁ぎ、速水守久らを産んだ。

斎藤義興 佐藤基春

 美濃国加治田で生まれる。天正10年(1582年)6月2日、加治田城主である父の利治が本能寺の変で織田信長・信忠と共に討ち死にし、新たに城主となった利治の兄で織田信孝の家老の利堯も、信孝と対立した羽柴秀吉に付いた森長可との間で同年8月に加治田・兼山合戦を行った後、病死した。利堯が後継人を決めていなかったため、家臣の多くは森長可に仕え、加治田も長可の支配下となって城も廃城になった。そのため義興兄弟は、佐藤忠能から三代にわたり家老をつとめた長沼三徳によって、加治田の絹丸捨堀で養育され、元服後に織田秀信に仕えた。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが始まり、義興は弟・市郎左衛門,長沼三徳と共に岐阜城の戦いで池田輝政と交戦。三徳は戦死し、義興と市右衛門も負傷するが、戦後に輝政に召し抱えられた。弟の市郎左衛門は松平直基へ任官した。
 義興の子孫は岡山藩士として明治維新を迎え、現在まで続く。 

 父・佐藤清綱は源頼朝より武蔵国入間郷を与えられたが、子の基春は承久3年(1221年)の承久の乱で敗れた大江親広が出羽国寒河江荘に潜居したのに従って出羽国に入り、以後、寒河江氏譜代の家臣として活動する。親広は父や息子が幕府軍の勝利に貢献したためか、親広に対する追及の手は厳しくなかったようである。親広は本貫地武蔵国入間にちなみ、寒河江荘の定住地に入間の名を付けた(現・山形県西村山郡西川町入間)。
 天正12年(1584年)、寒河江氏が最上氏に敗れると、佐藤勝訓は当主・寒河江高基と共に自害して果てた。子の佐藤茂良は最上氏に仕えて大阪の役に従軍している。直系は現在まで続く。