| F929:藤原千常 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 | F933:佐藤公清 |


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| 佐藤義清(西行) | 斎藤清信 |
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16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)、23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称した。 |
初代美濃国鉈尾山城主。出自については文献がなく全く不明であるが、諱は清泰寺(岐阜県美濃市)の過去帳,佐藤家系図には清信とあり、末裔の佐藤一斎も清泰寺墓の詩に八世の祖・清信と記しているが、清泰寺所蔵の『歴世因由録』には秀信とあり、『濃飛両国通史』には、関係事項によって清信,秀信,方信と異なる記載がある。 |
| 斎藤秀方 | 斎藤方政 |
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元亀元年(1570年)7月に父の清信が没すると家督を継ぎ、居城のある上有知他5,000貫の知行地を有した。 |
美濃国鉈尾山城主。文禄3年(1594年)、父・秀方の死により領地を継ぐが、代々の名乗りである六左衛門は兄の清重が継いでいる。しかし、小田原征伐へは方政が父の代理で出陣したともされる。 |
| 佐藤一斎 | 比企局 |
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明和9年10月20日(1772年11月14日)に佐藤信由の次男として、江戸浜町の岩村藩邸下屋敷内で生まれた。生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ、代々藩の家老を務める家柄だった。一斎も寛政2年(1790年)より岩村藩に仕え、藩主松平乗薀の3男・乗衡の近侍となるが、翌年に免職となる。その後は大坂に遊学し、皆川淇園,中井竹山に学んだ。 |
実名や父母・生没年は不明。娘に丹後内侍,河越尼,3女(実名通称不詳)、猶子は比企能員。 |
| 佐藤忠能 | 佐藤忠康 |
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美濃斎藤氏に仕え、斎藤道三方として土岐頼芸の追放に加わるが、弘治2年(1556年)の道三に子の斎藤義龍が反乱した長良川の戦いでは義龍方として従軍した。その戦功により感状をもらい、西田原(400貫)・神野(300貫)の他、加茂郡・武儀郡で4,389貫の所領を得た。 |
父・忠能は美濃斎藤氏に仕え、尾張の織田信長の侵攻に備えるため、関城主・長井道利や堂洞城主・岸信周とともに盟約を結び、その際に妹の八重緑は信周へ養女(人質)として出された。しかし、忠能が信長に内通したため、八重緑は加治田城に面した長尾丸山で磔にされた。 |
| 佐藤八重緑 | 斎藤利治 |
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尾張国の織田信長による美濃国への侵攻に対抗するため、関城の長井道利,堂洞城の岸信周,加治田城の佐藤忠能が盟約を結んだ際、結束を固めるため、道利の勧めで岸方の養女(人質)として差し出された。 |
天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。長良川の戦い後、織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は利治と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した。 |
| 斎藤義興 | 佐藤基春 |
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美濃国加治田で生まれる。天正10年(1582年)6月2日、加治田城主である父の利治が本能寺の変で織田信長・信忠と共に討ち死にし、新たに城主となった利治の兄で織田信孝の家老の利堯も、信孝と対立した羽柴秀吉に付いた森長可との間で同年8月に加治田・兼山合戦を行った後、病死した。利堯が後継人を決めていなかったため、家臣の多くは森長可に仕え、加治田も長可の支配下となって城も廃城になった。そのため義興兄弟は、佐藤忠能から三代にわたり家老をつとめた長沼三徳によって、加治田の絹丸捨堀で養育され、元服後に織田秀信に仕えた。 |
父・佐藤清綱は源頼朝より武蔵国入間郷を与えられたが、子の基春は承久3年(1221年)の承久の乱で敗れた大江親広が出羽国寒河江荘に潜居したのに従って出羽国に入り、以後、寒河江氏譜代の家臣として活動する。親広は父や息子が幕府軍の勝利に貢献したためか、親広に対する追及の手は厳しくなかったようである。親広は本貫地武蔵国入間にちなみ、寒河江荘の定住地に入間の名を付けた(現・山形県西村山郡西川町入間)。 |