| F838:遠山景朝 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 藤原重光 ― 遠山景朝 ― 遠山直廉 | F840:遠山直廉 | ● |

| 遠山直廉 | 遠山友勝 |
|---|---|
|
直廉は、美濃国東部の有力な国衆であった岩村城主の遠山景前の3男として生まれた(遠山景友の子とも)。苗木遠山氏の遠山景徳には嗣子が無かったために、次兄の遠山武景が苗木遠山氏の養子と決まったため、直廉は美濃国恵那郡手賀野村に阿寺城を築いて明照遠山氏の初代となった。 |
友勝が生まれた飯羽間遠山氏は岩村遠山氏の分家で「遠山七頭」の一つである。苗木遠山氏に養子として入った遠山直廉が永禄13年(1570年)に没すると、織田信長の命により飯羽間遠山氏の友勝が苗木遠山氏を相続し、飯羽間城は子の友忠に譲った。苗木遠山氏は直廉の代までは武田氏の麾下にあったが、友勝が嗣いだことにより織田氏の麾下となった。 |
| 遠山友忠 | 遠山友政 |
|
父・遠山友勝が織田信長の命で苗木遠山氏を継いで苗木城主となったことから、子の友忠は飯羽間城主となった。室は織田信長の姪。織田氏に従い、元亀3年(1572年)に武田信玄が西上作戦を開始すると、東美濃国に侵攻してきた秋山虎繁(信友)と戦っている(上村合戦)。 |
弘治2年(1556年)、飯羽間遠山氏として飯羽間城で生まれた。元亀3年(1573年)、父の遠山友忠が明照遠山氏を嗣ぐことになり、父と伴に阿寺城に移ったが、その後、苗木遠山氏を嗣いでいた祖父の遠山友勝が亡くなったため、父の友忠と共に苗木城に移った。天正2年(1574年)、武田勝頼が東濃に侵攻した際に、長兄で飯羽間城主の遠山友信は武田方に内応し、次兄の遠山友重は阿寺城が落城の際に討死した。このため3男の友政が苗木遠山氏の家督を継ぐことになった。天正8年(1580年)、美濃土岐郡高山城主の平井頼母の次女の松姫を娶った。 |
| 遠山友貞 | 遠山友春 |
|
第2代苗木藩主・遠山秀友の長男として寛永18年4月2日(1641年5月11日)苗木城にて生まれた。翌年5月に父が死んだため、わずか2歳で家督を継いだ。 |
寛文元年6月6日(1661年7月2日)苗木城で生まれた。延宝3年(1675年)7月6日、父の友貞の死去により苗木藩主を嗣ぎ、7月26日には、将軍・徳川綱吉に御目見えした。同年9月には藩内における奉行の不正取締りを行なった。延宝4年(1676年)12月26日、従五位下・和泉守に叙任。 |
| 遠山友由 | 遠山友央 |
|
元禄7年9月22日(1694年11月9日)、苗木城にて生まれた。宝永2年(1705年)6月10日、将軍・徳川綱吉に御目見えし、宝永4年(1707年)12月23日、従五位下に叙任され、伊予守友章と称した。 |
宝永2年10月7日(1705年11月22日)、苗木城で生まれた。享保7年(1722年)6月15日、兄で苗木藩主の遠山友由が没し、甥の遠山友将が苗木藩主を嗣いだ際に、兄の友由の遺言に基づき、美濃国加茂郡内において小野村・大野村・吉田村・寺前村の計490石を分知されて、旗本となり寄合に列した。同年6月28日、将軍の徳川吉宗に拝謁した。 |
| 遠山友明 | 遠山友清 |
|
享保4年(1719年)1月11日、常陸府中藩主・松平頼明の4男として生まれた。享保18年(1733年)3月11日、第7代藩主・遠山友央の養嗣子となり、幕府には享保2年(1717年)に頼明と林氏との間に生まれた3男と偽って届け出た。4月5日に遠山家に移り、その後、友央の長女・俊と婚姻した。同年5月1日、将軍・徳川吉宗に御目見、同年12月18日、従五位下に叙任され丹後守と称した。 |
享保20年5月14日(1735年7月4日)、遠山友央の次男として江戸で生まれた。延享2年(1745年)1月29日、父の友央の養嗣子で第8代藩主となっていた姉婿の友明の順養子となった。寛延2年(1749年)5月15日、将軍・徳川家重に御目見えし、寛延3年(1750年)12月18日、従五位下に叙任されて出羽守と称した。 |
| 遠山友寿 | 遠山友禄 |
|
天明6年11月25日(1787年1月14日)第9代藩主・遠山友清の長男・遠山友福の長男として江戸で生まれたが、母の直は、友寿を出産した翌日に没した。 |
3男だったが2人の兄が早世したため、文政11年(1828年)に世子となる。天保9年(1838年)11月に父が死去したため、翌年2月5日に跡を継いだ。 |