<藤原氏>北家 魚名流 ― 利仁流

F838:遠山景朝  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 藤原重光 ― 遠山景朝 ― 遠山直廉 F840:遠山直廉

遠山直廉 遠山友勝

 直廉は、美濃国東部の有力な国衆であった岩村城主の遠山景前の3男として生まれた(遠山景友の子とも)。苗木遠山氏の遠山景徳には嗣子が無かったために、次兄の遠山武景が苗木遠山氏の養子と決まったため、直廉は美濃国恵那郡手賀野村に阿寺城を築いて明照遠山氏の初代となった。
 しかし、天文21年(1552年)、武景が京都見物から帰る際に伊勢湾を尾張へ渡る舟に乗船中に盗賊の船に襲われて殺害されたため、直廉が苗木遠山氏を嗣ぐこととなり、高森山砦を拡張し苗木城主となった。
 天文年間に苗木遠山氏による加茂郡東部への侵攻が始まり、在地の土豪達は、次第に配下となり従った。遠山氏は、一時的に斎藤氏に従属するが、天文23年(1554年)、信濃国を領国化(信濃侵攻)していた甲斐武田氏が遠山氏の領地と接する信濃の伊那郡を制圧すると、遠山七頭は武田氏の傘下に入った。
 弘治2年(1557年)7月に、父の景前が病没して後継者争いが起こると、武田晴信の後押しで、長兄の景任が岩村遠山氏の当主となった。一方で、遠山氏は、斎藤氏を圧迫して美濃に勢力を伸ばす織田氏とも誼を通じた。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに、直廉は苗木勘太郎の名乗りで織田方として参戦した。直廉は尾張国を統一した織田信長の妹を妻に娶る。
 当時の遠山氏は武田・織田両氏に属する両属状態で、大圓寺,安国寺,政秀寺の外交僧を通じて、武田・織田間の外交を仲介した。武田氏と織田氏は、永禄年間(1558年~70年)に友好的関係(甲尾同盟)を持ち、 この頃、信長は直廉の一人娘(龍勝院)を養女とし、信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)の室として嫁がせている。これによって遠山氏を介して武田・織田両家の連衡が成立した。勝頼に嫁いだ龍勝院は武田信勝を出産した。通説ではこれは直廉の子とされる。
 永禄11年(1568年)、直廉は信玄に従って駿河侵攻に参加した。天文・弘治年間(1532~58年)は遠山氏と飛騨の三木氏は良好な関係を保っていたが、永禄12年(1569年)、信玄より三木自綱の弟で、武田氏から離反した三木次郎右衛門尉を攻めるように命じられたため、直廉は飛騨国益田郡に侵攻し大威徳寺の戦いにて矢傷を受けて苗木城に戻った。同年6月18日に、三木氏との戦で受けた矢傷がもとで、苗木城にて没した。
 直廉には男子がなく苗木遠山氏は再び断絶したため、信長は飯羽間遠山氏の遠山友勝を苗木城主にして嗣がせた。元亀3年(1572年)冬の武田氏による織田領への侵攻(西上作戦)は、信玄が指名した景任の病死を機にその後継者を信長の子・織田勝長としようとしたことから起こった遠山氏の後継問題に端を発したという説がある。  

 友勝が生まれた飯羽間遠山氏は岩村遠山氏の分家で「遠山七頭」の一つである。苗木遠山氏に養子として入った遠山直廉が永禄13年(1570年)に没すると、織田信長の命により飯羽間遠山氏の友勝が苗木遠山氏を相続し、飯羽間城は子の友忠に譲った。苗木遠山氏は直廉の代までは武田氏の麾下にあったが、友勝が嗣いだことにより織田氏の麾下となった。
 元亀元年(1570年)12月、甲斐と信濃を地盤とする武田氏重臣の秋山虎繁の軍勢が、徳川氏の本拠地である三河を攻めるため進軍している途中で、東美濃の恵那郡上村へ侵入したため、遠山氏と徳川氏の連合軍との間で上村合戦が勃発した。友勝はこの戦いにおいて、子で飯羽間城主の友忠や明知遠山氏の遠山景行,奥三河の奥平定能ら山家三方衆や三河衆と共に、虎繁が率いる武田軍と戦ったが敗れた(上村合戦で討死したという説もある)。
 元亀2年(1571年)9月25日には、苗木久兵衛が織田信長に従い比叡山焼討に加わっている。苗木久兵衛とは友勝か、子の友忠のどちらかと考えられる。
 友勝の没年は不詳だが、天正以後その名が現れないことから、すでにその頃には没したものと思われる。 

遠山友忠 遠山友政

 父・遠山友勝が織田信長の命で苗木遠山氏を継いで苗木城主となったことから、子の友忠は飯羽間城主となった。室は織田信長の姪。織田氏に従い、元亀3年(1572年)に武田信玄が西上作戦を開始すると、東美濃国に侵攻してきた秋山虎繁(信友)と戦っている(上村合戦)。
 友忠はその後、飯羽間城を長男・友信に任せて、自らは明照城に移っていたが、父の友勝が没したため、明照城を次男の友重に任せて、自らは3男(嫡男)の友政をつれて苗木城に入った。
 元亀4年/天正元年(1573年)8月、友忠によって加茂郡の野原城が陥落し、城主の安江左内正友は敗走して備後国へ落ち延び、弟の安江輿右衛門正記は、流浪の末、豊後国へ落ち延び没落した。友忠が木曾を攻めたときには、木曽氏の家臣で根尾山尾崎にあった砦を守っていた原平左衛門が、夜陰に紛れて恵那郡川上村の河折籠屋を攻め落とし首級62を獲られた。
 天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東濃に侵攻し、先ず高山城,苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とした。
 天正3年(1575年)、武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると、織田信忠はすぐに秋山が篭る岩村城を攻囲した(岩村城の戦い)。この戦いでは武田方に服従させられていた遠山氏の諸将は悉く自害して果て、織田・徳川方についた苗木遠山氏と明知遠山氏,串原遠山氏を残すのみとなった。
 天正10年(1582年)2月10日、甲州征伐の契機となった木曾義昌の調略の成功を信忠に取り次いだのは友忠とされ、以後も取次役となり、甲州征伐では木曾勢と共に先鋒を務めて出陣し、友忠・友政親子は鳥居峠の戦いで、武田方武将の今福某を横槍で倒し功を挙げて、後日、信長より感状を受けている。他方で、戦後に武田方に寝返っていた長男の友信が捕らえられて突き出され、処刑された。
天正10年(1582年)、信長が討たれると、北信濃の海津城主となっていた森長可は美濃金山城へ撤退しようとしたが、森長可の美濃への帰国を喜ばない友忠,木曾義昌,肥田忠政,平井頼母,久々利頼興は、帰路を捕らえ木曽福島で暗殺することを計画し、もし不成功に終わったら恵那郡の千旦林村で決戦することを企てた。しかし、海津城下で商売をしていた金山の道家彌三郎の密告により長可に知れるところとなり、逆に木曾義昌の息子・岩松丸(後の木曾義利)を人質に取られてしまう。友忠は、ここまで準備していたのに撤兵するのは残念であると反対し、森長可を討つ計画を主張したが、平井頼母や肥田玄蕃に宥められて断念した。ここで義昌の恨みを受けるようになれば、後に問題が残るとして撤兵した。
 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と織田信孝が対立しはじめると、秀吉から美濃金山城主の森長可の指揮下に入るよう命令されるが、これを拒絶。森長可の攻撃を防ぎきれず、子の友政,譜代の家臣らと共に徳川家康を頼って落ち延びた。以後は徳川氏の家臣である菅沼定利のもとに身を寄せ、友忠は数年後に死去したという。
武田勝頼室(龍勝院・遠山夫人)の実父を遠山直廉や友勝とともに、友忠に比定する説がある。 

 弘治2年(1556年)、飯羽間遠山氏として飯羽間城で生まれた。元亀3年(1573年)、父の遠山友忠が明照遠山氏を嗣ぐことになり、父と伴に阿寺城に移ったが、その後、苗木遠山氏を嗣いでいた祖父の遠山友勝が亡くなったため、父の友忠と共に苗木城に移った。天正2年(1574年)、武田勝頼が東濃に侵攻した際に、長兄で飯羽間城主の遠山友信は武田方に内応し、次兄の遠山友重は阿寺城が落城の際に討死した。このため3男の友政が苗木遠山氏の家督を継ぐことになった。天正8年(1580年)、美濃土岐郡高山城主の平井頼母の次女の松姫を娶った。
 天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると状況は一変し、羽柴秀吉から兼山城主の森長可に随身するように指示されたが、友政はこれを断った。天正11年(1583年)、東美濃の覇権を巡って森長可と争い、その降誘を蹴って戦って敗れた。友政は父や家臣をつれて、浜松城の徳川家康を頼って落ち延び、菅沼定利の配下に属した。
 天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川氏が関東転封となると、榊原康政(あるいは井伊直政)に属して、その領地である上野国館林に移った。この時に苗木遠山氏の遠山弥右衛門景利が榊原康政の家臣となり500石を得ている。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の役が始まると、東美濃では岩村城主の田丸直昌,苗木城主の河尻秀長,犬地城主の遠藤胤直,また犬山城主で木曽代官も兼務していた石川貞清らは尽く西軍に属した。徳川秀忠を大将とする東軍が中山道を進軍して来ると知ると、彼らはこれを封鎖しようとしたため、家康は改易した木曾義利の元家臣であった山村良勝,千村良重,苗木遠山氏の友政,明知遠山氏の利景,小里光親,妻木頼忠に、故郷に戻って兵を集めて城を取り戻すように命じた。家康は友政を召し出して木曽路と美濃への道筋を聞いたところ友政は詳細に言上した。これにより家康より鉄砲30丁と玉薬2万個、黄金10枚を拝領した。
 慶長5年(1600年)8月8日、友政は山村良勝,千村良重,馬場昌次,小笠原靱負とともに館林を出発。河尻秀長は、大坂警衛のため大和口の守備を命じられており、苗木城は関盛祥が城代として守っていた。友政は木曾衆の応援を受けて旧領に入ると、従う者が次々と増え、苗木付近の数百人の領民も味方につけて眞地平に陣を敷いて城に迫った。関盛祥は防戦は無理と見て家臣と共に苗木城を出て伊那方面へ去った。友政は18年ぶりに風吹門から入城した。
 遠山利景は明知城、小里光忠は小里城、妻木頼忠は妻木城を各々奪還して最後に岩村城を包囲したところで関ヶ原の勝敗が決したため、田丸主水は投降し岩村城を友政らに明け渡した(東濃の戦い)。
 徳川秀忠軍が木曽路を西に向かって進軍した際に沿道の住民は悉く山中に隠れるなどして離散し人がおらず、秀忠軍の兵士は食料を得ることができなかった。友政は所々に制札を立てて離散していた住民を家に帰らせて、米,大豆,馬などを秀忠軍に献じ、また大井宿にて秀忠に駿馬を献じた。結局、秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅れて参戦できなかったが、木曾衆と東濃衆の活躍が家康から評価され、河尻秀長に没収されていた苗木城と恵那郡北部と加茂郡東部の旧領1万500石の知行を回復し、苗木藩が成立し初代藩主となった。
 慶長15年(1610年)、家康が駿府城を再建した際には友政を奉行とした。友政は普請用の材木3千余本を福岡村の東山から伐出して用に充てた。これにあたり友政は日比野村の神明社と福岡村の天王社に祈願を込めた。駿府城の再建が無事に終了した後に、この2社に感謝して修築している。駿府城再建にあたり家臣の棚橋八兵衛が尽力し、その功により家老に列した。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では伊勢国桑名城を守備した。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では松平忠明の隊に属して武功を挙げた。
 同年、友政は天正2年(1574年)に武田勝頼が東濃へ侵攻した時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、元和元年(1615年)、友政は苗木に雲林寺を開基し、夬雲玄孚が開山した。
 元和5年(1620年)、苗木城で死去した。享年65。 

遠山友貞 遠山友春

 第2代苗木藩主・遠山秀友の長男として寛永18年4月2日(1641年5月11日)苗木城にて生まれた。翌年5月に父が死んだため、わずか2歳で家督を継いだ。
 正保2年(1645年)、江戸城の石垣普請を命じられた。慶安4年(1651年)6月29日、将軍・徳川家綱に御目見えした。寛文元年(1661年)増上寺勤番となり、12月28日、従五位下・信濃守に叙任。
 寛文2年(1662年)、藩主となって初めて苗木城に帰城した。弟の半九郎に5,000石、半左衛門に1,000石を分知したため、苗木藩は10,500石となった。また、藩祖以来の重要政策である新田開発を奨励し、犯罪人を荒廃地に強制移住させて開墾を行わせ623石の新田を得た。
 寛文4年(1664年)10月6日、家老の遠山太左衛門は、同じく家老で従弟の遠山勘兵衛宅を訪れ、斬合いとなり、太左衛門は勘兵衛を斬殺したが、自分もその場で勘兵衛の家士の者に討たれた。 このため、重臣遠山両家共が断絶となり、苗木藩で遠山を名乗るのは藩主のみとなった。
 寛文6年(1666年)1月20日、妻の久世広之の娘が没し、江戸本郷の本妙寺に葬ったが、久世家が法華宗陣門流であったため、妻の供養のために苗木新谷に法華宗陣門流の正中山佛好寺を開創し供養塔を建立した。その後、木下利貞の娘を娶った。
 延宝3年(1675年)5月6日、熱海で湯治中に病死。享年35。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。家督は長男の友春が継いだ。 

 寛文元年6月6日(1661年7月2日)苗木城で生まれた。延宝3年(1675年)7月6日、父の友貞の死去により苗木藩主を嗣ぎ、7月26日には、将軍・徳川綱吉に御目見えした。同年9月には藩内における奉行の不正取締りを行なった。延宝4年(1676年)12月26日、従五位下・和泉守に叙任。
 延宝5年(1677年)5月、藩主となって初めて苗木城へ入城した。伊東長貞の娘と婚姻していたが、延宝7年(1679年)12月26日に没したため、江戸高輪の東禅寺に葬った。その後、俊(織田長政の娘)を娶った。
 延宝8年(1680年)8月31日、鳥羽藩の内藤忠勝が改易されたため鳥羽城在番を命じられ、家老の纐纈藤左衛門,用人の小池傳兵衛,旗頭の石垣荘右衛門,鉄炮頭の伊藤十郎太夫,弓頭の纐纈勘右衛門,槍頭の陶山茂左衛門,賄役の宮地藤兵衛らが随行した。天和元年(1681年)4月、土井利益が鳥羽藩主となって入城したため引き渡す。
 元禄15年(1702年)7月、岩村藩主の丹羽氏音が越後高柳藩への移封にあたり、江戸から帰国し、老臣の宮地守右衛門らを伴って岩村城へ赴き、信濃飯田藩主の堀親賢と共に岩村城の請取役を務め、友春は二の丸、堀親賢は本丸、それぞれ7月29日に請取を完了した。信濃小諸藩より松平乗紀が岩村藩の第8代藩主として2万石で岩村城に来城する前の10月29日まで在番し松平家の家臣に岩村城を引き渡した。
 正徳2年(1712年)2月16日、家督を次男の遠山友由に譲って隠居し、友山と称した。正徳4年(1714年)2月26日に54歳で没した。墓所は中津川市苗木の苗木遠山家廟所。 

遠山友由 遠山友央

 元禄7年9月22日(1694年11月9日)、苗木城にて生まれた。宝永2年(1705年)6月10日、将軍・徳川綱吉に御目見えし、宝永4年(1707年)12月23日、従五位下に叙任され、伊予守友章と称した。
 正徳2年(1712年)2月16日、父の隠居により家督を継ぎ、4月28日に藩主となって初めて苗木城へ帰城した。正徳3年(1713年)2月、大坂加番に任じられ、3月11日に苗木城を発駕した。藩政では倹約を主とした。
 正徳5年(1715年)4月から享保元年(1716年)4月まで幸橋御門番を勤めた。また同年、名前を友由に改名した。享保2年(1717年)10月24日から享保3年(1718年)4月15日までは日比谷御門番を勤めた。
 享保3年7月26日(1718年8月22日)に発生した遠山地震によって苗木城内が大破した。
 享保6年(1721年)8月15日、江戸城の殿中にて急病により倒れた。11月には、十三ヶ条の百姓衣類定書を公布した。友由は生前、長男の遠山友将に跡目を相続することと、弟の遠山友央に加茂郡の内の500石を分知して旗本とすることを願い出て許可された。
 同年11月、友由は加茂郡越原村の子護神社の神徳を崇敬し、越原村庄屋の源右衛門に命じて、御立山の良材で社殿を再建し、銭神岩に祀ってあった祭神を子護神社に遷座し、「子護社子安大明神」と号した。この時以来、苗木藩主は、神饌を供し、家臣が代拝し、尾張国津島から眞野門之太夫を招いて神楽を催し、厳かな祭典を行わしめた。現在も伝承されている「神楽獅子」は、これが始まりとされている。
 その後病状は次第に重篤となり、享保7年(1722年)4月21日に江戸にて没した。享年29。遺骸は苗木へ送られて雲林寺墓地(中津川市苗木の苗木遠山家廟所)に埋葬された。長男の友将が苗木藩主を嗣いだ。 

 宝永2年10月7日(1705年11月22日)、苗木城で生まれた。享保7年(1722年)6月15日、兄で苗木藩主の遠山友由が没し、甥の遠山友将が苗木藩主を嗣いだ際に、兄の友由の遺言に基づき、美濃国加茂郡内において小野村・大野村・吉田村・寺前村の計490石を分知されて、旗本となり寄合に列した。同年6月28日、将軍の徳川吉宗に拝謁した。
 享保17年(1732年)閏5月25日、第6代藩主で甥の友将の死去により、末期養子として苗木藩主を相続し、同年7月21日、将軍の徳川吉宗に御目見えした。友央の藩主相続にあたり、同年8月17日、旗本として分知されていた490石を幕府(高山陣屋の飛騨郡代)に返上した結果、表高が1万21石となった。
490石は加茂郡の4村(小野村・大野村・吉田村・寺前村)を幕府に渡し、高山陣屋の飛騨郡代の支配下となった。
 同年12月16日、従五位下に叙任され和泉守と称した。また領民の衣類制限を緩和した。倹約令を緩和しているほかは、病弱であったために藩政において特段の治績は見られない。しかし、500石を幕府に返上したことは苗木藩にとって大きな痛手で、幕府への対応が拙かったとのことで江戸家老の大脇権右衛門は失脚した。
 享保18年(1733年)3月11日、常陸府中藩主・松平頼明の3男の越之進を養子として迎え、娘の俊と婚姻させた。享保20年(1735年)5月14日、次男の佐吉(遠山友清)が江戸で生まれた。天文5年(1740年)4月19日、常盤橋御門番に任じられたが、元文5年(1740年)8月27日、常陸府中藩の松平家から迎えた養嗣子の越之進(遠山友明)に藩主を譲って隠居し、翌年)5月、苗木城へ帰った。
 延享2年(1745年)1月29日、次男の佐吉が養子の友明の順養子となった。宝暦3年(1753年)6月1日、友明が37歳で没したため、7月23日、次男の佐吉(遠山友清)が苗木藩主を嗣ぐ。
 明和9年(1772年)6月13日、恵那郡福岡村の栗本温泉で療養中に68歳で没した。墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。  

遠山友明 遠山友清

 享保4年(1719年)1月11日、常陸府中藩主・松平頼明の4男として生まれた。享保18年(1733年)3月11日、第7代藩主・遠山友央の養嗣子となり、幕府には享保2年(1717年)に頼明と林氏との間に生まれた3男と偽って届け出た。4月5日に遠山家に移り、その後、友央の長女・俊と婚姻した。同年5月1日、将軍・徳川吉宗に御目見、同年12月18日、従五位下に叙任され丹後守と称した。
 享保19年(1734年)2月12日、名を友張に改名。元文5年(1740年)8月27日、友央が隠居したため家督を嗣いだ。寛保元年(1741年)4月24日に江戸を出発し、5月1日に初めて苗木城へ入城した。寛保2年(1742年)6月2日、佐渡守に改めた。
 寛保3年(1743年)9月5日、妻の俊が16歳で没し、江戸高輪の東禅寺に葬った。延享2年(1745年)1月29日、友央の長男の左吉(遠山友清)を養子とした。
 享保17年(1732年)閏5月25日、490石の旗本であった友央が、遠山友将の死去により、末期養子として苗木藩主を相続した際に、旗本として分知されていた490石を飛騨に近い加茂郡佐見村の4村(大野・小野・寺前・吉田)を幕府に渡し、高山陣屋の飛騨郡代の支配下となっていたが、延享2年(1745年)7月、高山陣屋の飛騨郡代が長谷川庄五郎から幸田善太夫に替わると、佐見村の内で230石は本田であるが、260石は新田なので上知できないので別の村から本田を260石差し出すように求められた。そのため下野村397石のうち、317石を幕府(高山陣屋の飛騨郡代)に渡し、残り80石は苗木藩に残した。そのことにより、佐見村内の新田分の260石は苗木藩に戻った。
 延享5年(1748年)5月15日、友明に改名。江戸の呉服橋御門番,日比谷御門番,常盤橋御門番を勤めた。
 宝暦3年(1753年)春に発病し、6月1日に江戸で没した。享年35。墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。友央の長男で養嗣子の友清が苗木藩主を嗣いだ。  

 享保20年5月14日(1735年7月4日)、遠山友央の次男として江戸で生まれた。延享2年(1745年)1月29日、父の友央の養嗣子で第8代藩主となっていた姉婿の友明の順養子となった。寛延2年(1749年)5月15日、将軍・徳川家重に御目見えし、寛延3年(1750年)12月18日、従五位下に叙任されて出羽守と称した。
 宝暦3年(1753年)7月23日、養父の友明の死去により苗木藩主を嗣ぐ。鍛冶橋御門番,幸橋門御門,日比谷御門,呉服橋御門を勤めた。
 明和2年(1762年)6月25日、京極高矩の娘の熊子と婚姻。
 安永2年(1773年)11月、飛騨国で安永騒動が起こると、11月14日に飛騨郡代の大原彦四郎から援兵の要請が来た。即刻藩内で会議を行い、地廻り代官に、日比野村・福岡村・田瀬村の人馬を禁足させて、11月15日に、下目付によって人足を福岡村から60人,田瀬村から48人,両村から11疋の馬を調達して飛騨高山まで通しを命じた。物頭の神山新左衛門が騎馬し、大目付の纐纈輿右衛門,目付の伊藤新平,医師の渡邉玄豊,徒士の市岡彌惣,下目付の佐々木半内・安藤貴右衛門・桃井甚五兵衛ら100余人で出発し、11月17日に高山陣屋へ到着した。11月16日には、郡方添役の伊藤輿右衛門ら60余人が出発し、11月23日には、徒歩目付の長谷川伊左衛門ら40余人が出発し、総勢350余人が出役した。飛騨の船津村に集まっていた群衆を岩村藩兵と共に捕縛して高山陣屋へ引き渡し、12月15日に苗木城へ帰城した。
 安永5年(1776年)3月7日、和泉守に改名した。安永6年(1777年)11月3日、家督を養嗣子の友随(友明の長男)に譲って隠居した。安永10年(1781年)1月12日、江戸麻布の下屋敷にて没した。享年47。墓所は中津川市苗木の遠山家廟所。 

遠山友寿 遠山友禄

 天明6年11月25日(1787年1月14日)第9代藩主・遠山友清の長男・遠山友福の長男として江戸で生まれたが、母の直は、友寿を出産した翌日に没した。
 天明7年(1787年)4月晦日、第10代藩主・友随の養嗣子となっていた実父の友福が早世したため、天明8年(1788年)4月22日、祖父の友随の嫡孫となった。寛政4年(1792年)12月21日、祖父の友随の隠居により、7歳で家督を相続したが、幼少のために肥後人吉藩主の相良長寛の後見を受けた。
 寛政9年(1797年)2月9日、将軍の徳川家斉に拝謁した。寛政12年(1800年)、4月9日に江戸を出発し、4月17日に初めて苗木城へ入城した。
 享和元年(1801年)、鍛冶橋御門番,駿府加番を勤めて、12月16日に、従五位下・刑部少輔に叙任された。藩士に重役心得を申し渡し、指導者の心構えと指導の重要性を強調した。文化4年(1807年)、乗馬仕立之主意を出し、先代藩主の友随の諸士心得の徹底を図った。
 文化11年(1814年)、美濃守に改めた。同年3月、藩財政の窮乏に近江国信楽代官取扱いの宿場助成貸付金3千両の借用を、領内33ヶ村を引当として申込んで800両の融通を受けるとともに倹約令を繰返し、借上や貸下げ、さらには家臣の統率強化にも務めた。
 文政2年9月17日(1819年)、継室の於由賀が、後に苗木藩主となった友禄を生む。文政13年7月(1830年)、衣類の倹約既定の申請書が側向の者に出された。天保3年(1832年)12月、倹約令で家中借上米が、翌年から3年間実施されたが、藩財政は好転の兆が見られず、借米期間は延長に延長を重ねた。
 天保9年(1838年)11月21日、53歳で没し、3男の友禄が苗木藩主を嗣いだ。墓所は岐阜県中津川市の苗木遠山家廟所。  

 3男だったが2人の兄が早世したため、文政11年(1828年)に世子となる。天保9年(1838年)11月に父が死去したため、翌年2月5日に跡を継いだ。
 文久元年(1861年)6月若年寄となる。文久2年(1862年)の生麦事件の際、英国代理公使のジョン・ニールに幕府担当者として陳謝に向かう。8月25日若年寄御役御免。
 元治元年(1865年) 10月2度目の若年寄就任。慶応元年(1865年)4月、友詳から友禄と改名。6月には14代将軍・徳川家茂に随伴し第2次長州征伐に参加。家茂が急死すると遺体を江戸へ護送し、その葬儀にも関わった。
 慶応3年(1867年)6月若年寄御免、愛宕下屋敷に引移り。日比谷御門固めとして江戸詰めを続ける。慶応4年(1868年)1月には江戸にのぼってきた在領家中の説得を受け幕府へ帰国願を出し、即日受理され2月9日苗木に戻る。2月21日 美江寺本陣にて東山道鎮撫岩倉総督へ勤王の旨申し上ぐ。苗木藩、信濃に出兵。
 明治2年(1869年)、版籍奉還により藩知事になる。大参事・青山直道を用いて藩政改革を行なったが、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を大参事以下40名が3年間返上させることなど、旧藩士にとって過酷な内容だったため後年藩内で騒動が起こった。あわせて藩知事・遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)までに明治維新当初14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は5万2600両、藩札5千両までに縮小したが、廃藩置県により苗木藩は廃藩となる。
 明治2年(1869年)7月、織田長易の4男・源三郎(遠山友悌)を養子に迎え、明治4年(1872年)、政府の指示により華族として東京へ移住する。晩年は旧藩士の救済などに尽力した。
 明治28年(1894年)4月4日、東京にて死去。享年76。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。