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寛永14年(1637年)、御小姓組番士200俵取りの旗本・戸田忠次の次男として生まれる。寛永17年(1640年)に忠次が死去した際、次男の忠時が4歳と幼少ながらもその跡を継いだ。 延宝8年(1680年)、目付となり従六位に叙される。天和2年(1682年)正月には伏見奉行を拝命し、1,000石の旗本となる。元禄2年(1689年)7月には甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)に附属され家老となり、8,000石に加増された。綱豊が5代将軍・徳川綱吉の継嗣となり、名を家宣と改め江戸城西の丸に入ると、忠時も召しだされ、御側衆として再び幕臣に復帰する。 宝永2年(1705年)、老齢のため供奉を免ぜられたが、3,000石の加増を受け、下野国足利郡・河内郡・都賀郡の3郡のうち1万1,000石に封ぜられて足利藩を立藩した。官位も大炊頭に遷任し、従四位下に昇叙し、徳川綱吉から朱印を賜る。 宝永5年(1708年)6月29日、家督を4男・忠囿に譲って隠居する。正徳2年(1712年)7月24日に死去。享年76。
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弘化4年(1847年)10月2日、第6代藩主・戸田忠禄の4男として生まれる。父は忠行が生まれる前の9月20日に死去したため、戸田氏の家督は父の婿養子であった忠文が継いだ。安政3年(1856年)に忠文が死去したため、忠行はその養子となって家督を継いだ。文久2年(1862年)12月16日に従五位下・長門守に叙位・任官する。 文久3年(1863年)6月から職制改革などを主とした藩政改革を行なう。慶応3年(1867年)10月に陸軍奉行並に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府・新政府の双方に対して曖昧な態度を取ったが、最終的に新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により足利藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。 その後は東京へ移り、神田表の神保町に住んだ。明治12年(1879年)に海軍裁判所御用掛・海軍御用掛に任じられる。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治25年(1892年)に本郷区駒込の東片町に移住したが、直後に火事で家が焼失したため、本郷区向岡の弥生町に移った。明治30年(1897年)に貴族院議員となり、明治39年(1906年)に勲4等を受賞する。 大正6年(1917年)8月に隠居する。大正7年(1918年)12月31日に死去した。享年72。
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