<藤原氏>北家 小野宮流

F511:鳥居行範  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師尹 ― 鳥居行範 ― 鵜殿長政 F515:鵜殿長政


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鵜殿長持 鵜殿長照

 三河国宝飯郡上ノ郷城の城主。16世紀前半の鵜殿氏は一族が分立し、現在の蒲郡市域の大半を統治していたという。また駿河の戦国大名・今川氏に従属し、三州西郡一万石(数字は不確か)を領したとされる大身分だった。また、今川義元の妹を室に迎えたという。連歌師の宗長・宗牧とも親交があった。弘治3年(1557年)自城にて没。
 鵜殿氏は東海地域の法華宗の後援者であり、15世紀から16世紀にかけて多数の法華宗寺院の建立を支援したが、天文21年(1552年)には隣国遠江の本興寺の仏殿修復の際には多額の寄進を行っており、棟札には長持の名が筆頭に挙げられている。 

今川氏が西進政策を採り続ける中で、鵜殿氏の所領は非常に重要度が高く、今川氏は縁を結ぶことで鵜殿氏の地位は向上させた。今川義元の妹が生母であり、当人も今川家の親戚として重用された。弘治3年(1557年)、父・長持が死去し家督を継いだ。
永禄3年5月(1560年)の桶狭間の戦い以前から、大高城の城代に任命されていたと言われる。だが、大高城は対織田戦線の最先端にあって身動きを封じられ、兵糧枯渇の窮地に立たされていた。義元自身による尾張攻め入りの前哨戦が、この大高城の支援を目的とされている。松平元康(のちの徳川家康)の兵糧運び入れが賞賛されたのは、この時である。窮地から解放されると、その元康と大高城の守備担当を交代させられる。その後の使命や働きなどは明確でなく、義元の本隊からの命令待ちで大高城内で待機していたと考えられる。しかし、肝心の義元が織田信長によって討たれると、元康よりも先に三河の本領に逃げ帰っている。
今川氏の支配が弱まった三河では松平家康に多くの領主達が味方する中、鵜殿氏は今川家の縁戚であったことから今川方に留まった。ただし、それは、今川氏との密接な間柄を保持する上ノ郷城の鵜殿総領家だけであって、周辺の下ノ郷城(蒲形城)を有する分家などは家康の味方に転じていった。やがて、松平氏と敵対。永禄5年(1562年)には家康からの攻撃を受け、戦死した。この戦闘で子の氏長と氏次は捕らえられ、駿河に人質となっていた家康の妻・築山殿,嫡男・松平信康との交換に利用された。
一説によると、上ノ郷城落城の際に長照は辛うじて城から脱出したものの、現在の蒲郡市清田町にある安楽寺の横の坂で伴資定という者に討ち取られたという。この坂は現在でも「鵜殿坂」と呼ばれ、この坂で転ぶとその怪我は一生治らないという伝説がある。

鵜殿氏長 鵜殿氏次

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで松平元康(徳川家康)が今川氏から独立すると、永禄5年(1562年)に三河制覇を目指す家康は上ノ郷城を攻め、父・長照は戦死、氏長は捕縛されて、今川氏の人質時代に義元に人質として差し出していた家康の正室・瀬名姫(築山殿)と嫡男・竹千代(松平信康)との人質交換の交渉道具として利用された。この交渉で、氏長と竹千代らの交換が成立し、その後、氏長は今川氏になおも仕えて、遠江二俣城の松井宗恒を頼っている。しかし、永禄11年(1568年)、武田信玄と呼応した家康が今川領に侵攻し、二俣城を攻めてくると、氏長は家康に降伏し、家臣として仕えた。
 その後、家康のもとで元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いに参加している。天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東に移封されると、1,700石を与えられ、旗本となった。文禄2年(1593年)、従五位下・石見守に叙位・任官する。寛永元年(1624年)6月14日に死去。享年76。 

 兄・氏長と共に「氏」の1字を許されているのは今川氏の血族でもあったためと考えられる。永禄5年(1562年)、徳川家康に居城の上ノ郷城を落とされたとき、氏長・氏次兄弟は捕縛され、駿府に残された家康正室・瀬名姫と嫡男・竹千代と長女・亀姫との人質交換の人員として利用された。
 今川氏への帰参後は遠江国で外敵に備えたものの、今川氏は東西から領国を奪われて消滅。鵜殿兄弟は、再度家康に降っている。そこで氏次は従兄弟にあたる深溝城主・松平家忠へ預けられた。慶長5年(1600年)伏見城の戦いで伏見城の守将となった家忠に従って西軍と戦い、家忠らとともに討死を遂げた。 

鵜殿長忠 西郡局

 叔父にあたる分家筋の柏原城主・鵜殿長祐の養子となった。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いを機に今川氏の三河支配が後退し、岡崎城の松平氏が今川氏を離れて台頭する。鵜殿一族は引き続き今川氏に属する者と松平氏に与する者に分かれ、当初、柏原家は上ノ郷家とともに今川方に属したらしく、早くに松平方についた下ノ郷城(蒲形城)の鵜殿長龍とは合戦に及んでいる。上ノ郷城は永禄5年(1562年)の上ノ郷城の戦いで松平勢によって攻め落とされ兄の長照は戦死したが、柏原家はその前後に松平氏に降ったようで、長祐は永禄6年(1563年)の三河一向一揆との戦いで松平氏の武将として戦死している。長忠は家臣の加藤義広(善左衛門)の娘を養女とし、彼女はやがて徳川家康の側室となって出身地から西郡局と呼ばれ、一女・督姫を生んでいる。
 宗長の『東国紀行』によれば、天文13年(1544年)三河を訪れた宗長は鵜殿氏領に滞在し「西郡千句」の興行を行っているが、長忠は、父の鵜殿長持,下ノ郷鵜殿玄長,深溝松平好景,竹谷松平清善,五井松平元心らとともに参加している。このように長忠は連歌を嗜んだようで、『家忠日記』にも連歌会を主催した記事が見える。
 天正16年(1588年)死去。子の長次は引き続き徳川氏に仕えたが、後に督姫の外戚の縁をもってその嫁ぎ先の池田氏に仕えることになった。子孫は鳥取藩の重臣となっている。 

 呼び名は西郡の方ともいう。実父は柏原城主・鵜殿氏に従った加藤氏といわれる。加藤氏は信濃国の出身で、元は三好氏といって父の代に三河に移って加藤氏の名跡を称し、領内の定期市運営を担当していたことが知られる。上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされたが、柏原鵜殿氏は徳川氏に服した。
 西郡局は柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産んだ。天正18年(1590年)に家康が江戸城に移るとそれに従った。鵜殿氏の菩提寺だった長応寺は永禄5年の上ノ郷城の戦いで、上ノ郷城落城の戦火により焼失していたが、西郡局は下ノ郷鵜殿氏出身の長応寺住持・日翁に帰依して多大な寄進を行い、江戸に長応寺を復興させた。
 慶長11年(1606年)伏見城にて急死した。同日には幕府重鎮の榊原康政が死去しており、西郡局は池田輝政の岳母、康政は輝政の長男・利隆の岳父と、共に池田家縁者だったため、人々は不思議に思ったという。家康の命により輝政が葬式を執り行い、京都本禅寺に葬られた。翌年、姫路藩主の輝政は姫路城外に青蓮寺を建立して墓所を移したが、元和4年(1618年)、輝政4男の山崎藩主・池田輝澄が現在の兵庫県宍粟市山崎町山田に100石を寄進して移転している。池田家は寛永17年(1640年)播磨国を離れたが、青蓮寺は幕府より特別の保護が与えられて存続した。 

鵜殿長鋭 鵜殿長春

 鵜殿甚左衛門長快の養子となり、1819年(文政2年)に家督を相続する。小納戸役などを経て、1848年(嘉永元年)、目付として幕府に仕えた。1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が来航すると攘夷を主張したが、翌年のペリー再来航時には日米和親条約締結の際の応対係を命じられている。安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持したが、南紀派の井伊直弼が大老に就任して安政の大獄を開始すると左遷された。これは、彼が攘夷を主張していたためと言われている。1860年(万延元年)、名を鳩翁と号した。
 1863年(文久3年)2月5日、将軍・徳川家茂上洛警護のために結成された浪士組の取締役に就任するが、浪士組が清河八郎の策略や、それに伴う近藤勇らとの対立により本来の役目を果たせないまま壬生浪士組(後の新選組)・新徴組に分裂することになると辞職した。明治には静岡に住み、1869年(明治2年)、62歳で没した。墓所は静岡市葵区の本要寺。 

 万治2年(1659年)、鳥取藩着座家の鵜殿長定の長男として鳥取城下で生まれる。曽祖父鵜殿長次を鳥取鵜殿初代とすると、長春は4代目となる。
 寛文2年(1662年)、4歳にして初めて藩主・光仲に御目見する。寛文4年(1664年)、江戸へ出府。翌年正月、初めて4代将軍・家綱に拝謁する。寛文11年(1671年)〜延宝6年(1678年)、証人(人質)として江戸に住む。
 元禄10年(1697年)、家老に任ぜられる。同時に父・長定の隠居を受け家督を継ぐ。元禄16年(1703年)12月、元禄大地震が起こる。幕府は江戸城門櫓の補修と石壁の改築を諸藩に命じる。藩主・吉泰は大手門から御玄関前御門の修築を担当、長春は総監督に任ぜられる。宝永7年(1710年)、旗本で再従兄の鵜殿長政の4男・長喬(のち長親)を養子にする。正徳4年(1714年)、老いを理由に引退を申し出るが許されず(その後も何度か引退を申し出る)。享保4年(1719年)・享保7年(1722年)・享保12年(1727年)には藩主・吉泰の参勤交代に随行。享保14年(1729年)、老病による引退を申し出るも、藩財政に限り担当を命ぜられる。享保15年(1730年)、在職のまま死去。享年72。12月、長親が家督を継承し、代々鳥取藩家老として明治維新を迎える。
 長春の在職は30年余に及び、乾長孝と共に藩始まって以来の老職中の双璧と称された。また、元禄9年(1696年)から約30年をかけて、鵜殿家史全21巻をまとめている。将来、子孫が漢文の素養を持たなくなったとしても困らないよう、第15巻・第16巻は和文編とした。
 長春は、厳にして苛ならず、和して流されず、自ら倹約に努め、30年余に渡って国務に参与した。参勤交代に随行する度、また留守居にあって、懸命に裁決に邁進し、労を厭わなかった。常に公平を旨とし、誰もが敬服した。仕事の合間に読書に勤しみ、時に文士を招いて経を論じ、詩作に興じた。常に穏やかな物言いで、決して激昂することはなかった。長春の死去を聞いて、貴賤の別なく、皆悲しんだという。また、長春はかつて孔子の道を信じ、訪う者も毎年のようにあった。世の知識人も長春を称えたという。