<藤原氏>北家 小一条流

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姉小路高基 姉小路済俊
 姉小路氏は南朝方といわれるが必ずしもそうではなく、高基の叙位叙官は北朝方によってなされた。すなわち、後醍醐天皇が吉野遷幸後、足利尊氏が豊仁親王(光明天皇)を奉じて北朝を開いたのち、左近衛少将に任ぜられ、さらに従四位に進み、興国5/康永3年(1344年)には正四位下宮内卿に昇った。鎌倉幕府滅亡から建武政権発足、南北朝分裂という動乱の時代を生きた高基は正平13/延文3年(1358年)に死去した。  

 姉小路済継の嫡男で、姉小路高綱の兄。夭折したが、家系図によると秀綱,清堯という2人の子があったとされる。
 父・済継の死後、家督を継ぎ飛騨国司となるも大永2年(1527年)、23歳の若さで急死。後、同族と思われる田向重継が家督を継承するもかつての勢いはなく、また弟・高綱も3年後の享禄3年(1530年)以降の消息が掴めていない。更にこちらも同族の江馬時盛も直頼以下三木氏の台頭を抑えきれず、以後、姉小路氏は没落、弘治2年(1556年)に重継が三木直頼の子・良頼(のちの嗣頼)に滅ぼされたことで事実上姉小路家は断絶した。以後、良頼の朝廷工作でその子・自綱が姉小路の名跡を継承すると、時盛以下江馬氏と小島家の小島時光もこれに従属した。また済俊の嫡男・秀綱は名跡を継承した自綱の子・秀綱とは同名の別人の可能性が高く、同族と見られていた重継は近年になって弟・高綱と同一人物との説もある。しかし、弟・高綱,嫡男・秀綱,次男・清堯いずれにも姉小路家の家督を継承したという記録はない。 

姉小路良頼 三木自綱

 永正17年(1520年)、飛騨国南部を支配した三木直頼の嫡男として誕生。天文23年(1554年)、父・直頼が病死したため、家督を継承する。
 弘治2年(1556年)3月に古川姉小路家の当主・姉小路高綱を滅ぼす。また、向氏の姉小路家は牛丸氏によって没落させられており、良頼は飛騨一国に覇を唱えた。小島氏の姉小路家とは父・三木直頼の代より通じ、同盟を結んだ。
 弘治4年(1558年)、将軍・足利義輝や関白・近衛前嗣に接近して工作した結果、朝廷から従五位下・飛騨守に叙任され、飛騨国司となった。良頼は引き続き工作を行い、永禄2年(1559年)10月には嫡男・自綱が姉小路国司家の一族であると認められ、翌永禄3年(1560年)に良頼は従四位下、自綱は従五位下・左衛門佐に叙任された上、正式に古川氏姉小路家の名跡の継承をも認められた。
 永禄5年(1562年)2月に良頼はついに従三位に叙せられ公卿に昇ると同時に、関白・近衛前嗣から「嗣」の偏諱を受け嗣頼に改名した。飛騨近辺では並ぶ者のないほどの名声を得た嗣頼は、次に中納言の位を得ようとした。かつての飛騨国司・古川姉小路基綱が従二位・権中納言の官位であったことから、それと同列に並ぼうとしたと考えられる。同年12月1日に将軍・足利義輝を通じて近衛前嗣に奏請してもらうが、11日に正親町天皇に拒否される。前嗣は18日にもう一度奏請を試みたものの、20日に再び拒否され、嗣頼の野望は成功しなかった。それでも嗣頼はよほど中納言の職に執着があったのか、以後勝手に中納言を自称した。
 永禄6年(1563年)3月には嗣頼は参議に任じるとともに自綱を侍従に任官させるが、7月に嗣頼の参議は解かれている。
 官位を上昇させる一方で、北飛騨吉城郡の江馬時盛との対立は続いていた。永禄年間に時盛が甲斐・信濃を支配する武田信玄の援助を受けその傘下となると、嗣頼はそれに対抗して越後・越中を支配する上杉謙信と誼を通じる。しかし、永禄7年(1564年)嗣頼は武田氏家臣の山県昌景や木曾義昌の侵攻を受けて降伏し、江馬氏に領土の一部を割譲するなど譲歩を迫られた上に、武田氏に臣従することを余儀なくされた。
 武田氏の飛騨侵攻後、良頼は上杉氏へ通報し、上杉氏は越中衆が飛騨国へ加勢、更に第五次川中島の戦いにより60日間上杉謙信は武田信玄と対陣し、武田氏は飛騨国より撤兵した。武田方の江馬時盛は人質を出して降伏し、江馬氏の家督が江馬輝盛へ移り、姉小路氏も飛騨国独立を維持した。
 一方で、元亀元年(1570年)、足利義昭を擁立して上洛した織田信長からの上洛命令を受けた際は、斎藤道三の娘を正室としている嫡男・頼綱を上洛させて信長と誼を通じた。頼綱は正室の縁により、織田信長と相婿の関係である。
 元亀3年(1572年)、上杉謙信から越中出兵の要請を受けるが、病のために出陣できず江馬輝盛を代理として派遣した。また同年10月18日には嫡男・自綱を派遣することを上杉氏に申し送っている。同年11月12日薨去。

 別名、三木自綱。他に光頼・自頼。永禄2年(1559年)、父の命を受けて国司である姉小路家の名跡を継承する。元亀3年(1572年)、上杉謙信の要請に応じて越中に出兵したが、その直後に父・良頼が死んだため、家督を継承した。
 天正6年(1578年)、謙信が死去すると織田信長と手を結び、本拠を松倉城に移して飛騨の支配体制を固める。上杉氏から織田氏への鞍替えには反対する傘下の国人衆も多く、頼綱はこれをことごとく攻め滅ぼすという政策を取ったために、本家の領地は増えたものの姉小路氏を支援する勢力は減り、結果的に勢力を弱めることになる。また天正7年(1579年)には長男の姉小路信綱に謀反の疑いをかけ殺害した(天正11年(1583年)とする説もある)。織田傘下では佐々成政の越中侵攻に協力した。
 天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で死去すると、かねてから敵対関係にあった江馬輝盛を飛騨の関ヶ原の戦いと言われる八日町の戦いで倒し、小島氏、さらに実弟の鍋山顕綱を討って、飛騨を完全に制圧した。その後は柴田勝家や佐々成政と手を結んで羽柴秀吉と対立する。このため、秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を招き、自身の籠もった飛騨高堂城を攻められて降伏した。これにより戦国大名としての姉小路氏は完全に滅亡する。子の秀綱など一族の多くは自害したが、頼綱は助命されて京都に幽閉され、天正15年(1587年)に同地で没した。 

三木秀綱 姉小路高綱

 家系図によれば、飛騨国司姉小路家にも同名の人物がいたとされるが、別の人物である可能性が高い。
 兄の信綱は叔父の三木顕綱(鍋山顕綱)の謀反計画に加担したとして、父に誅殺された。このため秀綱が嫡男扱いとなり、鍋山顕綱亡き後の鍋山城を一時期預かった。飛騨国を統一後、姉小路頼綱は家督を秀綱に譲り、高堂城を隠居城とした。秀綱は三木姉小路氏当主になり、飛騨松倉城を本拠地とした。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いなどの騒乱時に、父の頼綱は柴田勝家や佐々成政と通じて羽柴秀吉に対抗した。結果として、柴田氏は滅び天下の趨勢は羽柴秀吉のものとなり、佐々も秀吉に降伏した。天正13年(1585年)8月、三木姉小路氏は、秀吉の命令を受けて飛騨に侵攻して来た金森長近の追討を受けた。父が金森軍に降伏した後も、しかし秀綱らは徹底抗戦の意志を示し、姉小路軍を飛騨松倉城へ全軍集結させ、弟の三木季綱と共に籠城戦を行った。松倉城は堅牢と言えど多勢に無勢であり、金森軍中の牛丸親綱ら、かつて飛騨国を追われた国人衆の隊が出丸を占拠、さらに松倉城方の藤瀬新蔵の家臣が金森軍に寝返り、深夜に城に放火した。城方が混乱している最中に金森軍は全軍を突入させ、松倉城を攻め落とした。
 秀綱は愛馬にまたがり城から一気に飛び降り逃走した、と伝わるが、妻も一緒に城から脱出しているので、普通に脱出したと推測される。弟の鍋山季綱と合流した秀綱一行は、妻の実家である春日氏の信濃国淡路城へ向かった。途中、妻と別行動としたが、木曽の所縁の寺を目指したとも、徳川家康の庇護を得ようとしたとも伝わる。この途上、秀綱らは落ち武者狩りに遭い、殺害された。
 9月2日、羽柴秀吉が上杉景勝に対し、三木自綱・秀綱父子を誅滅し、獄門にかけた旨を伝えている。自綱(頼綱)は生存しているため、秀綱は晒し首にされたと推測される。 

 飛騨国司を称した。姉小路済継の次男で、兄に済俊がいる。飛騨小鷹利城主。飛騨の乱により分裂した向小島氏の家系であり、飛騨百足城を築城したとされるが詳細は分かっていない。姉小路家を取り巻く環境から天正4年(1576年)に死去したとする説があるが、享禄3年(1530年)以降は史上から抹殺されるなど未だに不可解な点が多い。家督を継承したという記録もないが、一説によれば兄・済俊の死後に姉小路家を継いだとされる田向重継と高綱は同一人物とするものもあり、そうであれば高綱が姉小路家を継承したことになる。なお、重継については済俊の死後、姉小路家を継承したが、弘治2年(1556年)に三木直頼によって滅ぼされたという記録が残る。 
向 宣政

 出羽久保田藩家老。家格宿老廻座である向氏(のちに小鷹狩氏に改姓)の祖。飛騨国の姉小路氏三家(古川氏・小島氏・向氏)氏族の向氏一族と思われる。はじめ飛騨国小鷹利城に住し、父である姉小路高綱の死後に城主となり、家督を継承して姉小路宣政と名乗ったとされる(持城に向小島城)。しかし、幼少であったため、後見役の牛丸重親(牛丸氏)が城を乗っ取ろうと企て、それから逃れるべく家臣の後藤重元によって脱出した。
 天正年間中に、飛騨国から母の故郷である常陸国の戦国大名・佐竹義宣に仕官し、この頃、姉小路頼綱の次女が正室として嫁いだ可能性が高い。なお、弟の俊政も300石で仕官する。
 関ヶ原の戦いの後に主君・義宣が出羽久保田藩へ転封となると、これに追随し横手城の城代となって2000石を知行する。慶長8年(1603年)に久保田城下士の指南を命じられ、後に家老となる。