|
建治4年(1278年)従五位下に叙爵。弘安3年(1280年)従五位上に進み、弘安8年(1285年)に正五位下・左兵衛佐に叙任。正応元年(1288年)中宮権大進を兼ねた。 正応4年(1291年)に左衛門権佐に転任。防鴨河使を兼ね、正応5年11月(1293年1月)五位蔵人に補任された。その後も順調に昇進を重ねた。乾元2年(1303年)参議に任ぜられて公卿に列する。嘉元2年(1304年)従三位・近江権守に叙任され、徳治元年12月(1307年1月)権中納言に進んだ。また、花園天皇の即位に伴って伏見上皇の院政が再開されるとその伝奏を務めた。 文保元年(1317年)伏見上皇が崩御すると、その子の後伏見上皇が跡をついで院政を行うが、定資は引き続き上皇の側近として伝奏を務めるなど、持明院統に接近した。 文保2年(1318年)大宰権帥を辞退。同年、大覚寺統の後醍醐天皇の即位に伴って後宇多上皇の院政が再開されると、その伝奏を務める。しかし、伝奏としての活動を示す記録は少ない。史料上でも引き続き定資が持明院統側に近いことが確認できる。その後、大覚寺統の治世中である10余年は官に就かず、元徳2年(1330年)病となり、7月11日辰の刻、散位のまま66歳で薨去した。その死は頓死であったと伝えられる。
|