<藤原氏>北家 高藤流

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甘露寺藤長 甘露寺兼長

 伯父・吉田定房の猶子となっていたが、建武3年/延元元年(1336年)に建武の新政が倒れ、定房が後醍醐天皇と共に吉野に奔ると、実父・隆長と共に京に残り、北朝方に出仕する。以後、蔵人頭,山城権守,造興福寺長官などを歴任し、貞和元年/興国6年(1345年)に参議となる。正平3年/貞和4年(1348年)権中納言、延文5年/正平15年(1360年)に正二位に至る。康安元年/正平16年(1361年)に流行の疫病に罹り薨去。享年43。
 権中納言に昇進した際、同族で参議としては上臈であった吉田国俊が同時に権中納言に昇進したため、一族の勧修寺経顕や葉室長光らと協議して国俊に「吉田」の家名を譲って自らは「甘露寺」と称した。また、当時南朝に与した伯父定房やその子・宗房とは、勧修寺流の嫡流の地位を巡る対抗関係にあり、祖先の藤原為輔が建立した寺院・甘露寺を家号に定めることで、その意識を明確に示した。その子孫は甘露寺家となり、結果的に定房流を凌いで勧修寺流の嫡流となった。
 建武期には雑訴決断所の構成員を務めており、その関係で北朝でも雑訴沙汰を処理する政務機関で職務に当たっている。

 貞治3年(1364年)正月5日、8歳にして従五位上に叙され、応安7年(1374年)12月、左兵衛佐・正五位下となり、永和4年(1378年)12月13日に右少弁に任じられる。康暦元年(1379年)3月21日に正五位上、同2年12月22日左少弁、永徳元年(1381年)8月14日右中弁、更に権左中弁に進み、従四位下となる。
 永徳2年(1382年)5月23日、蔵人の経験がないまま、即位間もない後、小松天皇の蔵人頭に任じられ、従四位上に加階される。同年11月6日に参議に転じた。この間に足利義満の家司となり、永徳元年に開かれた義満の内大臣の任大臣大饗の行事役を務めている。永徳3年(1383年)11月15日には、正四位下を経ることなく従三位に加叙される。
 至徳3年(1386年)1月6日には正三位、同年8月27日には権中納言となり、明徳3年(1392年)8月22日までその地位にあった。明徳4年(1393年)正月に従二位、応永8年(1401年)に正二位に叙されたものの久しく散位にあり、応永16年(1409年)7月23日、53歳にして権大納言に任ぜられ、父・祖父の官を越す。応永18年(1411年)10月24日、勧修寺経豊に勧修寺長者を譲ると共に、権大納言を辞す。代わって権大納言に任じられた経豊は翌日に死去した。12月20日に、前官待遇を受ける本座宣下を受け、翌応永19年(1412年)12月28日、按察使を兼任する。
 その後も後小松院の院司として活動し、その功績によって死の前日である応永29年(1422年)2月7日に従一位に叙せられた。 

甘露寺清長 甘露寺忠長

 右兵衛権佐を経て、応永6年(1399年)3月27日、五位蔵人に任じられる。正五位下に加階の後、応永8年(1401年)に右少弁。応永13年(1406年)4月23日に蔵人を辞して、同年8月17日に左少弁に転じる。翌14年、右中弁。
 応永18年(1411年)11月25日に後小松天皇の蔵人頭に任ぜられると共に右大弁に昇進し、正四位上に加階された。引き続き、称光天皇の蔵人頭を経て、応永20年(1413年)2月1日に左大弁兼参議となり、5月1日に従三位に叙される。5月20日に甘露寺家では初となる伝奏に任ぜられるが、6月24日(7月21日)には出仕停止を命じられ、伝奏を解任される。翌応永21年(1414年)3月16日に近江権守を兼任するも、8月29日に34歳で薨去、死の前日に権中納言に任ぜられた。
 子・忠長はまだ幼く、弟・房長が家督を継いだが、この事が後に紛争を招くことになった。 

 甘露寺家の嫡流に生まれたが、父・清長が応永21年(1414年)8月に34歳で没したため、祖父・兼長によって家督は叔父・房長が継いだ。
 左衛門佐を経て、応永32年(1425年)6月7日、権右中弁となる。同年11月、房長が勅勘を受けて除籍された際、称光天皇からその闕に任じるよう足利義持に提案があったが、実現しなかった。『薩戒記』によれば、この頃、忠長は房長との仲が悪化していた。翌応永33年(1426年)12月18日、右中弁に転じ、同34年6月20日、五位蔵人に任じられる。正長元年(1428年)11月3日、房長と同時に後花園天皇の蔵人頭に任じられ、同時に右大弁に昇進する。
 その後、房長は病を得たため、永享2年(1430年)11月に職を辞して蟄居し、6代将軍・足利義教の許可を得て家督を忠長に譲り、自身と子息の扶持を頼む。永享4年(1432年)7月の義教の内大臣就任に伴っては、室町殿家司に任じられる。しかし、永享6年(1434年)2月、義教の側室・日野重子が義教の嫡男(後の足利義勝)を出産した際、大勢の人々が日野家に祝いに駆け付けたことを知った義教が、その人々の真意を疑ってことごとく処罰した際に、忠長も所領・邸宅を没収され、家督を房長の遺児である親長に譲るように命じられた。その後も頭弁として朝廷に仕えたが、2年後の永享8年(1436年)5月15日、急逝した。貞成親王は、「有職抜群洪才の者」とその才能を評価し、その早すぎる死を惜しむ記述を『看聞日記』に遺している。
 郷長(今丸),康長の2児があり、忠長の死後、親長に養育されていたが、両名とも、忠長の生前より三宝院や三千院への入門が約されていたという。嘉吉元年(1441年)、郷長は嫡流として家督を継ぐことを主張して訴訟を起こしたが、数年の後、失敗に終わり、郷長・康長ともに、最終的には出家したと見られる。また、家業の基盤となる甘露寺家の記録類の多くは、永享6年2月の後も親長に渡されず、忠長死後には、忠長母の禅尼が諸方に売却してしまったという。 

甘露寺房長 甘露寺親長

 応永21年(1414年)に兄・清長が早逝したため、父・兼長の判断によって、甘露寺家の家督を継いだ。応永22(1415年)年10月以前に昇殿、治部少輔を経て、同24年正月6日、正五位下、右衛門佐を経て、同年8月15日以前に左衛門佐となる。応永27年(1420年)閏正月13日に右少弁、3月23日に五位蔵人に任じられ、翌年12月21日に左少弁に転じた。
 応永32年(1425年)正月30日に右中弁、6月7日に左中弁に昇進し、引き続き蔵人を兼ねて活躍する。ところが、同年11月13日、平野臨時祭の御禊にて、蔵人として役供を担当する予定であったところ、同日に行われる平野祭に担当の弁官として参向していたために御禊に遅刻し、装束を着したまま長時間待たされた称光天皇の怒りを買う。沈酔していたにもかかわらず、事情を説明する申状に酒を飲んでいないと述べてあったとして、天皇の怒りは増し、除籍・蔵人解任となる。天皇の怒りは半年程で解け始め、応永33年(1426年)5月15日、従四位下に昇進、10月には参内も許された。応永34年(1427年)正月5日、従四位上。
 後花園天皇即位後の正長元年11月3日(1428年12月9日)、甥の忠長(清長・男)と並んで蔵人頭に任じられ、同日、左大弁に進む。頭弁として奔走していたが、病を得て、永享2年(1430年)11月に出仕を止める。『看聞日記』同月19日条によれば癩病で、大嘗祭の辰日節会が行なわれたこの日、殿上間に着座した人々の前で転倒して縁から落ちてしまい、前年に仙洞御所で倒れたこともあり、これらのことを恥じて辞任したという。
 出仕を止めた後、房長は足利義教の許可を得て、忠長に甘露寺家の家督を譲り、自身と子等の扶持を頼んだ。その後、永享4年(1432年)6月23日に病没した。甘露寺家の家督は、一旦、忠長に移ったが、永享6年(1434年)2月に忠長が義教の不興を買い、その命により、房長の嫡男・親長が家督を得ることとなった。 

 応永31年(1425年)、頭弁(蔵人頭左大弁)・甘露寺房長の子として生まれる(応永32年説もあり)。嘉吉3年(1443年)、南朝の遺臣が内裏の中に侵入し、三種の神器を奪おうとした事件(禁闕の変)が起きた際、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が知られる。
文安元年(1444年)右少弁、同3年(1446年)蔵人・権右中弁となり正五位上。その後も累進し従三位・権中納言となる。康正2年(1456年)正三位に進み、陸奥出羽按察使に任ぜられ、以後、明応2年(1493年)まで同職にとどまったため按察使中納言の名で呼ばれた。また長年賀茂伝奏も務める。
応仁の乱による戦火で自邸が焼失したため、文明2年(1470年)に勧修寺・鞍馬寺等へ避難するが、それらも焼け出され、家蔵の文書・日記類も焼失した(甘露寺家を嫡流とする勧修寺流は実務の家柄であり、必要上から記録を克明につけており「日記の家」とも称された)。同年9月には帰京し、再出仕。すでに前年には官位は正二位に昇っていたが、官職は寛正6年(1465年)に権中納言を辞して以来、就任を固辞している。有職故実に通じていたことから、多くの公卿から指導を依頼され、たびたび官に推挙されたが、「高官無益なり」とかたくなに断ったという。文明9年(1477年)には後土御門天皇の命によって洞院公賢の年代記『皇代暦』を増補して天皇に献上している。
明応元年(1492年)、嫡子・元長ら周囲の強い薦めにより権大納言への就任を受けたが、翌年に明応の政変の憤慨した後土御門天皇が退位を決意するとこれを諌め、その直後にすべての官を辞して出家。法名・蓮空を名乗る。明応9年(1500年)、美濃で薨去。享年77。
日記として『親長卿記』があり、同時代の貴重な史料となっている。またそれまでの諸記録の写本も多く残し、特に吉田経房の日記『吉記』や洞院公賢の日記『園太暦』の現存する写本の大部分は、親長の手によるものである。

甘露寺元長

 兄・氏長が万里小路家を継いだために甘露寺家の後継者となる。文正元年4月8日(1466年5月22日)に叙爵され、左兵衛佐を経て、文明4年2月27日(1472年4月5日)に後土御門天皇の蔵人となり、5日後の3月2日(同年4月10日)には右少弁を兼ねた。4月4日(同5月11日)には17歳の元長が父と共に蔵人弁として参内して吉書の儀式を行い、天皇から父子揃って天盃を受けている。以後、元長は文明13年12月3日(1481年12月23日)に蔵人頭(右中弁)就任を経て、文明18年8月9日(1486年9月6日)に右大弁兼参議に任じられて蔵人頭を辞任するまで、14年にわたって蔵人と弁官を兼務していた。その間、父・親長も伝奏(前権中納言)を務め、親子で朝廷の文書を発給できる状態にあった。
 文明19年7月17日(1487年8月6日)に従三位に叙され、長享2年9月17日(1488年10月21日)に権中納言に任ぜられ、延徳3年12月18日(1492年1月17日)には正三位、文亀元年8月18日(1501年9月30日)には従二位に叙せられる。永正14年1月2日(1517年1月23日)には権大納言に任ぜられて同年4月18日(同5月8日)には正二位に叙され、永正16年9月27日(1519年10月20日)には民部卿を兼ねる。永正18年4月4日(1521年5月10日)には権大納言を辞するが、本座宣下が出され、大永6年5月8日(1526年6月17日)には従一位に叙せられた。翌大永7年(1527年)に72歳で薨去。
 元長の日記として『元長卿記』が伝わっている。延徳2年(1490年)から大永5年(1525年)までの間、永正13年(1516年)・同15年・16年を除いた33年間の記録である。日記の特徴としては、朝廷の儀式や和歌・連歌関連の記録が多く、同時代の他の公家の日記に比べて政治や社会についての記載は少ないと指摘される。また、本記は一年間通して書かれた年がなく、日付や天気などが簡潔に書かれた記事も多い。これは日記の散逸を示しているのではなく、当初から書かれなかったものとされている。