| F471:吉田為経 | 藤原高藤 ― 甘露寺為輔 ― 藤原宣孝 ― 坊城為房 ― 吉田経房 ― 吉田為経 ― 甘露寺藤長 | F472:甘露寺藤長 |

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| 甘露寺藤長 | 甘露寺兼長 |
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伯父・吉田定房の猶子となっていたが、建武3年/延元元年(1336年)に建武の新政が倒れ、定房が後醍醐天皇と共に吉野に奔ると、実父・隆長と共に京に残り、北朝方に出仕する。以後、蔵人頭,山城権守,造興福寺長官などを歴任し、貞和元年/興国6年(1345年)に参議となる。正平3年/貞和4年(1348年)権中納言、延文5年/正平15年(1360年)に正二位に至る。康安元年/正平16年(1361年)に流行の疫病に罹り薨去。享年43。 |
貞治3年(1364年)正月5日、8歳にして従五位上に叙され、応安7年(1374年)12月、左兵衛佐・正五位下となり、永和4年(1378年)12月13日に右少弁に任じられる。康暦元年(1379年)3月21日に正五位上、同2年12月22日左少弁、永徳元年(1381年)8月14日右中弁、更に権左中弁に進み、従四位下となる。 |
| 甘露寺清長 | 甘露寺忠長 |
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右兵衛権佐を経て、応永6年(1399年)3月27日、五位蔵人に任じられる。正五位下に加階の後、応永8年(1401年)に右少弁。応永13年(1406年)4月23日に蔵人を辞して、同年8月17日に左少弁に転じる。翌14年、右中弁。 |
甘露寺家の嫡流に生まれたが、父・清長が応永21年(1414年)8月に34歳で没したため、祖父・兼長によって家督は叔父・房長が継いだ。 |
| 甘露寺房長 | 甘露寺親長 |
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応永21年(1414年)に兄・清長が早逝したため、父・兼長の判断によって、甘露寺家の家督を継いだ。応永22(1415年)年10月以前に昇殿、治部少輔を経て、同24年正月6日、正五位下、右衛門佐を経て、同年8月15日以前に左衛門佐となる。応永27年(1420年)閏正月13日に右少弁、3月23日に五位蔵人に任じられ、翌年12月21日に左少弁に転じた。 |
応永31年(1425年)、頭弁(蔵人頭左大弁)・甘露寺房長の子として生まれる(応永32年説もあり)。嘉吉3年(1443年)、南朝の遺臣が内裏の中に侵入し、三種の神器を奪おうとした事件(禁闕の変)が起きた際、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が知られる。 |
| 甘露寺元長 | |
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兄・氏長が万里小路家を継いだために甘露寺家の後継者となる。文正元年4月8日(1466年5月22日)に叙爵され、左兵衛佐を経て、文明4年2月27日(1472年4月5日)に後土御門天皇の蔵人となり、5日後の3月2日(同年4月10日)には右少弁を兼ねた。4月4日(同5月11日)には17歳の元長が父と共に蔵人弁として参内して吉書の儀式を行い、天皇から父子揃って天盃を受けている。以後、元長は文明13年12月3日(1481年12月23日)に蔵人頭(右中弁)就任を経て、文明18年8月9日(1486年9月6日)に右大弁兼参議に任じられて蔵人頭を辞任するまで、14年にわたって蔵人と弁官を兼務していた。その間、父・親長も伝奏(前権中納言)を務め、親子で朝廷の文書を発給できる状態にあった。 |