<藤原氏>南家

F028:二階堂行政  藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 二階堂行政 ― 山角定澄 F059:山角定澄


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山角定澄 山角定次
 二階堂氏の末裔で、山城国宇治郡山角が本貫と伝わる。はじめ山城国宇治郡大道寺に住んで、大道寺を称し、のち定澄の代に伊勢長氏(北条早雲)に仕え、小田原城下篠原に住んだ。同所は山の角にあたるところから山角と呼ばれ、それによって家号を山角としたという。一説に関東下向時の当主を大道寺重時と同人とする。いずれにせよ、北条早雲の関東下向時から従った武将のひとりとされる。後北条氏に代々重臣として仕え、下総多古に所領を持ち小田原城下に屋敷を構えた。

 山角定吉の嫡男として誕生。北条氏康から偏諱を受け、その子・氏政の側近であった。『北条氏所領役帳』には、御馬廻衆として200貫文余の知行高が記されている。虎朱印状の奉者を務め、評定衆としても活躍した。現存している裁許朱印状には康定が関与した物が多数残っており、彼の評定衆としての活躍が窺い知れる。また、検使や伊豆国代官を務め、上杉謙信との越相同盟交渉にも関わっている。他にも小田原城の御馬廻衆の統括者であり、300騎の侍大将であった。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に籠城し、開城後まもなく死去している。

山角定勝
 定勝は北条氏政・氏直に仕えた。天正10年(1582年)、徳川家康と氏直が講和のとき、家康の娘・督姫が氏直に嫁したが、そのとき媒酌を勤めた。小田原没落後、氏直に従って高野山に上ったが、氏直死後は家康に仕え、相模国のうちで1200石を知行した。