| G392:石川義時 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 石川義時 ― 石川清兼 | G393:石川清兼 |

| リンク | G394 |
| 石川清兼 | 石川家成 |
|---|---|
|
松平清康に仕え、その死後は広忠に近侍した。天文11年12月(1543年1月)徳川家康誕生の際には「蟇目の役」を務めたとされる。同18年の天野孫七郎宛知行書、24年の大工跡職安堵状、弘治3年(1557年)の浄妙寺宛て道場安堵書などから、この間松平家の重臣として、西三河における政務を取仕切る立場にあったと考えられている。また「岡崎領主古記」によると、清兼(忠成)は天文年間中の「五奉行」のひとりであったという。 |
徳川家康が今川義元の人質であった頃から仕えた譜代の家臣である。永禄元年(1558年)、寺部攻めで先鋒を務めた。 |
|
石川康通 |
石川数正 |
|
天正元年(1573年)、武田勝頼率いる武田軍と戦って武名を挙げた。天正8年(1580年)、父・家成が隠居したため、家督を継ぐ。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されたとき、それまでの戦功を賞されて上総国成戸に2万石の所領を与えられた。 |
徳川家康が松平竹千代の幼名を名乗っていた今川義元の人質時代から家康の近侍として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて松平氏が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時、今川氏の人質であった松平信康を取り戻した。 永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で戦ったときには、先鋒を務めて活躍した。 |
|
石川康勝 |
|
|
父数正と共に徳川家康に仕える。家康の次子秀康が豊臣家の人質に取られた時、兄康長とともに同行した。後、父の出奔に伴い、父兄と共に豊臣秀吉に仕えた。父の死後、遺領の信濃国松本藩8万石のうち、筑摩郡1万5千石を相続。1600年の関ヶ原の戦いでは、兄と共に東軍に与して所領を安堵されている。 |